第三部
2014/12/30 発表:鈴木陵
第三部〈時間の花〉
13章「むこうでは一日、ここでは1年」
ジジへの脅し文句
「おまえをつくり出したのはわれわれだ。おまえはゴム人間さ。われわれが空気を入れてふくらましてやったのだ。だがわれわれをおこらせるようなことをしたら、おまえからまた空気を抜いてしまうぞ。それともおまえがいまのようになれたのは、おまえのそのけちな才能のおかげだとでも、ほんきで思っているのか?」「そうだとも。」(231)
「もちろん、どうするかを決めるのはお前じしんだ。おまえがどうしてもと言うのなら、英雄を気取ったあげく身をほろぼしたって、われわれはかまいはしない。どうだね、ずっと金持ちで有名だってことのほうが、ずっとましじゃないのかね?」
時間貯蓄を始める時にはあたかも「自分自身で決めた」ように巧みにプレゼンしておきながら、この場面では「おまえをつくり出したのはわれわれだ」と断言した上に「空気を抜いてしまう」と脅している。一方で最後には「決めるのはお前じしん」と言っていて、どこまでいっても「自分で決めた」ような形にならざるをえなくなる。
「だが市当局こそ、そのための対策を考えねばならん立場にあるはずだ」
「道路で子供が遊ぶために事故がふえて、そのための支出がかさむ一方だ。これほどの金なら、もっとほかに懸命な利用法があろうというものじゃないか。」
「放置された子どもというのは、(略)道徳的に堕落し、非行に走るようになります。(略)社会の役に立つ有能な一員に教育するようにしなくてはいけませんね。」(246)
「子供は未来の人的資源だ。」(247)
表現をマイルドにすれば、国の教育方針を定めた文言、ワイドショーのコメンテーターの発言、ひいてはNPOのミッションに置き換えられてしまうな…と思ってぞっとした。「お年寄りの自主的な活動を促すことが、医療費の削減に貢献している」みたいな話が普通になされて、場合によってはネット上のメディアで「好事例」みたいに紹介される場合があるけど、これも「子どもの事故でその支出がかさむ」という話と同じ構造だなあと感じる。
「じぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。」
「たったひとつ子どもたちがまだやれたことはといえば、さわぐことでした―ほがらかにはしゃぐのではなく、腹立ちまぎれの、とげとげしいさわぎでした。」(248)
ぼくが前の仕事を辞めたとき「することがなくて不安」と思った感覚にも似ている。「休みの日を充実させなくてはいけない」みたいな物言いも思い起こされる。大谷さんがブログで「平熱の革命」と書いていたけど、これは「ぜんぜんわからない」状態に落ち入らず、灰色の男の質問から抜け出るひとつの形なのではと思える。ワールドカップやハロウィンでたくさんの人が街で騒いでいる様子とかは、「とげとげしい」感じがする。
14章「食べものはたっぷり、話はちょっぴり」
「さてこれで空腹はおさまりましたが、ベッポがどうなったかを、どうしてもきいておかねばなりません。そこでもういちどモモは列にならびました。でも手ぶらでならんでいると、またみんなにうるさくしかられるかもしれないと心配になって、またすすみながらガラス・ケースからあれこれと食べものをとりました。」(260)
「食べるものはたくさんもらったわ、おおすぎるほどね。でも、満足した気持ちには、ひとつもなれないの。」(264)
都会にいてぽっかり時間が空いたりすると、1人でぼーっとしたいだけなのに「漫画が読めてフリードリンクが飲める椅子」に対してお金を払わないとけなったりする。ただ座ってあたたかいコーヒーを飲みたいだけなのに、座るに適当な場所が見当たらないので「おしゃれだけど人でごった返しているカフェ」に入らないといけなくなる。そんな状況が思い起こされた。必要としていることをそのまま受け取れず、すり替わる感じ。
19章「包囲のなかでの決意」
「ところが人間がその中に灰色の男を入りこませてしまうと、やつらはそこから時間の花をどんどんうばうようになるのだ。」(320)
「ある日きゅうに、なにもする気がなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。(略)こころの中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。」(321)
「致死的退屈症というのだ。」(322)
なかなかきついけど的確な文章だなあ。鬱の症状を説明しているようなかんじだ。ぼく自身も似た感覚になったことがあったのを思い出す。
21章「おわり、そして新しいはじまり」
「人間にとっては、それはまばたきするほどのあいだに終わってしまったのです。」
「ほんとうはそれはじぶんが貯蓄した時間で、それがいまふしぎな方法でもどってきたのだとは、だれも知りませんでした。」(349)
「まばたきするほどのあいだ」というのがとても印象的。
「窓辺のうつくしい花に目をとめたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。」(350)
「仕事を辞めてから夕日を見るようになった」という言葉を思い出した。
その他コメント
まるねこ堂ゼミで読んだ2冊目「考える練習」(保坂和志)に出てくる「やつら」の存在が思い起こされた。「灰色の男」も「やつら」のひとつなのではないか。