小林健司
大のおとなが、そろいもそろって「モモ」の本を片手に議論するさまは、きっとハタから見れば異様な光景、少なくとも「モモ」好きのマニアックな人たちが好き勝手に語っているようにしか見えなかっただろう。
けれど、あの場で話されたことは、参加しただれもが予想できないほど、広大で彩り豊かで確かな手ごたえのあるものだった。あれから何日も過ぎてしまった今、あのとき感じたものは過ぎ去ったものになって、再び感じることはできなくなってしまったけれど、確かに”あのとき””あの場で”話していたことは、これを書いているこの瞬間もぼくの中に残っている。
それだけの議論を可能にしたのは、やはり「モモ」という作品の力が大きいと思う。例えば、一部(5章)、二部(7章)、三部(9章)、と一部から三部にかけて増えていく章立てに反して、読み手の体感としては三部が最も早く過ぎていくように感じられる構成。モモが一部で夜空の星をみるときに聞こえる音楽と、二部でマイスター・ホラと話す時の内容のつながり、灰色のおところたちが広がっていく中で静けさがなくなっていく描写と、三部で灰色のおとこたちに反撃をする時に時間を止める描写のつながり、など、いたるところに、作品全体が持っている世界が文字として連なって並んでいる。
ぼくがもっとも覚えているのは、灰色のおとこたちが語るストーリーに、街の人が引きつけられることで強くなっていく重力のようなものがあるのをみんなで発見したことだった。モモや街の人の持っているいくつもの色が重なって作られるカラフルな世界は、その重力が持つ一つだけの価値基準によってまさに白と黒しかない灰色の世界になっていく。灰色のおとこたちに迫られる中で、モモがじぶんの存在を保つことができたのは「じゃあ、あんたのことを好いてくれる人はどこにもいないの?」という一言だったけれど、その一言と灰色のおとこたちの語るストーリーが見事にかみ合っていなくて、ついには灰色のおとこたちは自分の正体をばらしてしまう。この一場面は物語としても好きだけれど、このゼミでじっくり議論をしてもっと好きになった。まるで、雪景色を好きな人が、雪をじっくり見たときに結晶を発見して、その構造や形の美しさにみとれるような、そんな感覚なのかもしれない。
最後に、モモに登場する主要人物が網野善彦のいうところの「無縁」の存在だという大谷氏の見解をきいて、次回「無縁・公界・楽」のゼミがより楽しみになった。