【04】意味の外にある時間

大谷隆

『モモ』ゼミでの、黒澤氏による「可視光」を元にした「人間は光の一部分しか見ることができない。同じように時間も一部しか認識できないのではないか。そして、その認識可能な時間とは〈意味〉なのだ」という視界は見事であった。それをここに記録しておく。以下は補足に過ぎないが、本書からこの視界を裏付ける箇所を示す。

モモは二章の終わりで「頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳な静けさにひたすら聞きい[30]」っている。この「静けさを聞く」という表現は「通常人間の耳では認識できない領域の音を聞くこと=不可聴音」を示している。さらにこの「静けさ」は「ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心に染み入る音楽」[30]とまで、モモによって具体化している。

この「音楽」こそが、後にマイスターホラがモモに「時間とはなにか」を問うた時、モモが、

「そうだ、わかったわ! 一種の音楽なのよーーいつでも響いているから人間がとりたてて聞きもしない音楽なのよ。でもあたしは、しょっちゅう聞いていたような気がするわ、とっても静かな音楽よ。[210]」

とモモにとっての「時間の謎」の答となる。「人間が聞きもしない音楽」という表現は、人間が〈意味〉として認識できない〈意味〉外時間を示している。

この〈意味〉外時間は、物語中は「灰色の男たち」という「擬人化された近代」※の出現前後の比較から、見ることができる。例えば、ニノの居酒屋で「安いぶどう酒一杯で一晩粘ったじいさん」の持っていた時間と「スピード料理 レストラン・ニノ」で「ただ食べるためだけに並ばされている客」の時間がそうだ。後者の時間は食べ物を食べるという意味だけが抽出された時間であるのと比べ、前者は一杯のぶどう酒を飲むためだけの時間ではなく、その外にある〈意味〉に回収されない時間が存在する。

この〈意味〉外時間を含む〈全時間〉が大きな作用をもたらすことは、二章でニノとニコラの言い争いからわかる。二人の言い争い聞くモモは、一体何を「聞いて」いたのか。二人の言い分、つまり意味のある言葉だけを聞いていたわけではなく、その意味以外を含んだ〈全時間〉を「聞いて」いた。逆に言えば、モモが「聞くこと」によって〈意味〉外の時間が生まれ、〈全時間〉が二人の諍いを解決したといえる。

また、〈意味〉外時間を聞くことができるモモが聞いてくれることによって、ベッポは〈意味〉外を含む言葉すら話すことができた。

「むかしのわしらに会ったよ。」これだけ言うと長いこと休んで、それからしずかな声でそのさきをつづけました。「よくあることだがーー暑さの中ではないなにもかも眠りこんでいるような、まっぴるまのことだーー世界が透き通って見えてくるーー川みたいにだ、いいかねーー底まで見えるんだ。」[49]

このベッポの言葉の「ーー」は長い無言の時間であり、この一見〈意味〉の通らない言葉の連なり、すなわち〈意味〉外の言葉は、モモが〈全時間〉を聞くことによって出現している。
近代化した社会と人間には認識不可能となってしまった〈意味〉外の領域までを含めた〈全時間〉。それがミヒャエル・エンデが本書のすべてを投じて現した「時間の秘密」のうちの少なくとも一つと言って良い。

※「灰色の男たち(複数形)」には「目的」も「根拠」も無い。またコインを使って「議長」の指示で半分ずつ減っていく際[343]の妙に民主的な態度も、神や王を殺して成し遂げられた近代の近代性を示していると言える。
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