【05】『増補 無縁・公界・楽』第5回レジュメ

2015年4月19日 作成:小林健司

■十二 山林

・山林そのものがアジールという反転した世界観

私は、中世前期には、山林そのものが−−−もとよりその全てというわけではないが−−−アジールであり、寺院が駆込寺としての機能をもっているのも、もともとの根源は山林のアジール性、聖地性に求められる、と考える。[127] 
戦国期、ここには「遁科屋」(たんくわ屋)が存在した。それはいかなる罪科人も、この門の中に足をふみ入れれば、その科を遁れうるという建物といわれ、高野山のアジール的性格を物語る最もよい証拠とされているが、こうした特質の源流は、やはり山林そのものの聖地性に求められるのではなかろうか。[128]
これまでゼミでも確認してきた現在の社会における「有縁」と「無縁」の世界の比率が逆転しているという視点がいよいよ明らかに示されてくる。山林だけではなく、海や川も同様となると、自然崇拝の延長だと考えられるが、神話や古代宗教の思想が14世紀頃まで社会の中で力強く息づいていたのだと思うと衝撃的な発見だといえる。

■十三 市と宿

・「有縁」の世界と「無縁」の世界の勢力争い

小早川氏が恐れたのは、沼田市庭に潜在する「無縁」の原理そのものであった。それが否応なしに及ぼしてくる、小早川氏の私的な主従関係に体する攪乱作用こそ、小早川氏が忌避したものだったのである。小早川氏は、ここで、「無縁」の場と、自らに「有縁」な家臣団とを区別しつつ、一方で、「無縁」の場をその直轄下に置こうとしている 〜中略〜 この政策は、すでに戦国大名、信長・秀吉の政策の源流をなしているといっても差支えない。[135]
「無縁」の原理は、〜中略〜 一面では戦国期よりもはるかに広く、強力に働き、「有縁」の世界に圧力を加えていたとはいえ、まだ、神仏と結びつけられた呪術的な色合いが強く、自覚的な原理として主張されるまでに至っていない。前節で述べた「山林」についても、同じことがいえよう。それ故、中世前期、「無縁」の原理は、場に即していえば、神仏の支配する地、「聖」なる場、「無主」の地として現れてくるのである。[135]
無縁の世界が広がった中で、有縁の世界を築こうとした中世の支配者や戦国大名にとって、無縁の世界に対する働きかけは、神仏へのそれを同じだったのだろうか。恐れをもちながら、それでも、自分の力の及ぶ範囲を広げようとする姿に、神仏への挑戦というイメージを重ねた。

・山林、寺社、非人、という「無縁」につながる流れ

寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現れている。〜中略〜神仏の支配する「無主」の場であり、「無縁」の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市がたち、諸国を往反・遍歴する「無縁」の輩が募ったのである。[137]
無縁の世界は、作ったのではなく、もともと古代からあった自然崇拝が山林・山岳信仰となり、寺社がその象徴となり、そこに「無縁」の輩が募った。ということを抑えておきたくなった。

・社会の中に、堂々と力強く存在する「無縁」の輩

鎌倉時代、非人の宿は、畿内とその周辺の場合には、〜中略〜 広く分布していた。嘉元二年(一三〇四)、 〜中略〜 そのときの記録によると 〜中略〜計二〇二七人に各人十文ずつの銭が施されている。[138]
もとより「有縁」の世界からの「差別」はあったとはいえ、これらの非人をも含む「無縁」の人々の独自な世界は、中世前期にはなお「有縁」のそれに拮抗し、ときには圧倒するほどに広く、力強いものをもっていたのである。[139]
幕府の法廷で堂々と争う[140]
2千人という数は、現代でも一カ所に集まればかなり多い人数。それが、全て非人だとすると、想像することは難しいが、当時の権力者が恐れるのに十分な説得力のある数字だった。

■十四 墓所と禅律僧・時衆

・社会全体に及ぶ、有縁と無縁の拮抗

中世前期の「無縁」の場は、はるかに粗野で、また広大であった。[147]
「穢」と「無縁」の場、あるいは「無縁」の人々の間に、なんらかの関係があったことは事実であり、それを意識的に結びつけようとする見方が、当時の社会の上層部の中に、強く働いていたのは、間違いないことといえよう。とはいえ、その見方は、中世前期、決して社会全体を支配していたわけではない。逆にこうした「無縁」の世界を積極的に肯定し、そこに生きる道を見出す人々が輩出し、そうした人をうけいれる空気は、朝廷や幕府の上層部にも存在していたのである。[148]
差別の中に封じこめようとする動きに、決して圧倒されてはいない。[153]
穢と結びつけようとする勢力と、無縁の世界を肯定し受け入れる勢力があったとすると、それぞれどのような属性の人だったのだろうか。権力を維持・拡大しようとする動きと、もともとの世界の原理に近いところで生きようとする動きのようにも見える。そして、その2つ動きは、一人一人の個人の中にもあるようにも思える。社会の動きと人の心の動きとの結びつきに興味が湧いてくる。

■コメント(大谷)

  • 中世前期、無縁はこの頃、最も強力になり有縁と拮抗する。中でも「一遍を祖師とする時宗の徒ー時衆」が「戦闘する軍勢の間をぬって葬送を行なう」[150]など、無縁の原理をまとう上人・聖たちの社会的活動の活発さが目立つ。これは網野善彦が高校生に問われた「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか」[5]への答えの一部と読むことができる。数多くの優れた宗教家は確かに、人物として優れてはいるがそれ以上に、この時代、こういった無縁の人々が強力な力を持ち得たこと、その活動によって社会を大きく左右し得たこと、無縁の原理が最も強力に社会に現れた時代だったからこそ、この時代においてのみ優れた宗教家を多数輩出し得たということではないだろうか。
Share: