2014/08/01 発表:山根美緒
第三章 対話性についてー自由の実践としての教育の本質
1.教育によって人間に起こる変化
人間というのはどのような存在であり得るか
2.生成テーマの探求
変化をもたらすためにテーマの探求において意識すべきこと
対話への与件
愛、謙虚さ、人間への信頼、これらがあってはじめて対話は水平的なものとなり、お互いの関係が本来の意味での深い”信頼”に満ちたもになるのは当然である。[127]
「愛、謙虚さ、人間への信頼」を持って対話し信頼の関係を築き、より世界を引き受けていける仲間になることができる。
1.教育によって起こる変化
「自らに閉じられた」存在から「意識あるからだ」へ
・人間と動物の違い
人間には「未完」な点がまだまだあるわけだが、人間はそれぞれに活動能力があるというだけでなく、その活動そのものを意識の対象にすることができ、それが他の動物を人間と異なるものにしている。動物は自分の活動から自分の意識を分離することはできない。[140]
動物=基本的に「自らに閉じられた」存在[141]、歴史なき存在、「限界ー行為」はない。
人間=自らを意識し世界を意識している[143]、歴史的な存在、「限界ー行為」により世界を変革することができる。
「動物」や「抑圧された人間」においては、状況は自分と同一化され働きかけのできないものであるが。人間は「状況」を自分自身と分離し、変革をもたらす。人間は「限界ー状況」を自らの自由の障害物と認識し、「限界ー行為」により新しい現実を変え新しい状況を作り出していくことができる。
人間=自らを意識し世界を意識している[143]、歴史的な存在、「限界ー行為」により世界を変革することができる。
「動物」や「抑圧された人間」においては、状況は自分と同一化され働きかけのできないものであるが。人間は「状況」を自分自身と分離し、変革をもたらす。人間は「限界ー状況」を自らの自由の障害物と認識し、「限界ー行為」により新しい現実を変え新しい状況を作り出していくことができる。
・コード化・脱コード化により自分と世界を切り離して考える
脱コード化のあらゆる面で、人々は自分の世界の見方、世界への考え方、「限界ー状況」の宿命的認識、現実を静的にとらえること、あるいは逆に動的にとらえることを外在化する。[157]
外在化つまり自分がいる状況を自分自身と分離し客観視することが可能になっていく。
2.生成テーマの探求
コード化・脱コード化をすすめ「限界ー行為」を導き出すための方法論・調査のプロセス
調査をすすめるなかで、調査者と調査される人々の対話のなかからテーマを見出し、そこからプラグラムが探求される。
私達が追求しなければならない唯一の道は状況を意識化すること。[185]
生成テーマは人間と世界の相互の関係においてのみ理解されるもの。[158]
テーマは歴史的なもの。[160]
人間はモノではない。静的な調査の対象ではない。また、人間のない場所にテーマは存在しない。
もし、人々がこの「限界ー状況」に癒着してしまって、自らを「分離」することができなくなると、そのテーマは必然的に”運命論”になり、だからやるべき「仕事」は、なにもないということになってしまう。[172]
生成テーマは人間と世界の相互の関係においてのみ理解されるもの。[158]
テーマは歴史的なもの。[160]
人間はモノではない。静的な調査の対象ではない。また、人間のない場所にテーマは存在しない。
もし、人々がこの「限界ー状況」に癒着してしまって、自らを「分離」することができなくなると、そのテーマは必然的に”運命論”になり、だからやるべき「仕事」は、なにもないということになってしまう。[172]
調査をすすめ、調査者にとってテーマがわかったと思っても他の人たちがどう思っているのかわからない。調査の第1段階で「限界ー状況」を把握しても、それをあとの「未然の可能性」の認識には至っていない。「未然の可能性」に近づくためにコード化を行いながら
自らの置かれている現実を分析し、以前に自分がもっていた認識を振り返り、間違って認識されていた現実に新しい認識をし直すことが必要。[175]
自らの置かれている現実を分析し、以前に自分がもっていた認識を振り返り、間違って認識されていた現実に新しい認識をし直すことが必要。[175]
新しい認識により「限界ー状況」への癒着から開放され、「未然の可能性」の認識そして行動へと結びついていく。
・「テーマの要」が「扇のように開いていく」:「本質的な」コード化と「補助的な」コード化
まずある場面をコード化(本質的なコード化)しそれを基礎にテーマを広げていく(補助的なコード化)ことで、自らの客観視を加速させる。
・「テーマの要」が「扇のように開いていく」:「本質的な」コード化と「補助的な」コード化
まずある場面をコード化(本質的なコード化)しそれを基礎にテーマを広げていく(補助的なコード化)ことで、自らの客観視を加速させる。
人間が個性的であることの所以
追求すべき目的を決めるのは自分と自分の属する世界との関係、自分と他者との関係[142−143]
やるべきこと、やりたいことは、自分と自分の置かれた状況のなかから沸き上がってくる。自分のなかからではなく、自分の状況の中からのみ行きたい方向が見えてくのだろう。全く同じ状況に生きる人など誰もいなのだから、客観視が可能な人ほどどうしようもなく個性的になっていくように思う。
コメント(山根)
読み進めるについて自分の被抑圧的な部分やそのメカニズムを知りつつあることが面白い。この本は農民についてのみ書かれているのではなく、自らの抑圧からの解放の手引だと思った。「自らの置かれている現実を分析し、以前に自分がもっていた認識を振り返り、間違って認識されていた現状に新しい認識をし直すこと」[175]が実際に起こっていく。 何かのせいにすることをやめ、今の状況を引き受け、どう生きたいかを積極的に考えていくことを可能にする。フレイレが人間であっても「動物」のときがあると示唆していることに驚いた。今まで非人間化や人間化という意味がよく掴めないでいたが、「動物化」や「機械化」であり、形としては人間であっても、自らの世界観をもった一人の人間とはみなされないということがわかった。
ゼミでの対話は、いろいろな状況のコード化・脱コード化を起こしている。
高向さんの「交渉は大事」というコメントは、ある状況で交渉したいか・したくないと思うかで自分が相手と信頼の関係を持とうとしているかそうではないかということを知ることができることがわかった。
コメント(大谷)
現代の日本で考えると非抑圧的状況は必ずしも当事者にとって「苦しい」状態ではなく、その状況にとどまる方が楽なことも多い。「限界ー行動」はその「限界ー状況」を超えていくこと。日本史家・網野善彦は「歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことである」(『僕の叔父さん網野善彦』中沢新一、p70)と信じていた。この「歴史学」とフレイレの「被抑圧者の教育学」のメカニズムは同一のものだろう。
第3章後半、問題解決型教育の具体的手順が出てくるが、写真やイラストを多用する手法は、現代の広告宣伝やマーケティングの考えに似ている。マクドナルドのハンバーガーが世界的に広まっていったのは従来型の教育的で啓発的な手法によるものではなく、写真、動画によってまだ知らない物を受け入れさせていく手法によるもの。
コメント(高向)
フレイレがいう「被抑圧者」とは非エンパワメントの状態を指す。そこからの解放を目指す教育とうい意味で、エンパワメント教育といえる。フレイレの議論は、現代日本社会に通じる。
フレイレのいう人間的とは、「一人ひとりが考える主体として自分を感じていること、自分の思いを議論できること、自らの世界観をもてるということ、自分の提案を自由に表して仲間と共に議論できること」[196] マック労働、コンビニ労働、などマニュアル化された労働は非人間的であるといえる。非人間化することを良しとする働き方が、マニュアル化により(戦後)拡大しているのではないか。
市場原理を良しとする経済社会(既存秩序社会)と生活世界は原理が異なる。前者は非人間化を良しとする社会、後者は人間化を良しとする社会。前者の中で、人間化を目指す行動はかなりしんどい。そうではなく、(大谷さんは『アクセス』という)変革後の社会を勝手につくって勝手に生きる。革命後の世界を生きるというイメージ。個々人の自由な実践が、個々バラバラに広がっていく感じ。全体として、パイが増えるとそれが社会秩序に変化する