【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第18回 2023年7月29日 大谷隆 ## 範囲 緒論 古典的偏見と現象への復帰 Ⅰ「連合」と「追憶の投射」 ## 問題1 何かを見てそれが赤や円に見える。その赤や円といっているそれは、当たり前にそう思える見本のような赤や円である。 しかし、現実世界には、見本となる赤や円は存在しない。少しずつ異なる赤っぽいもの、円っぽいものが複数ある。 どのようにして、見本の赤や円を手にしたのか。そして、どのようにして、今見ているそれを赤や円だとするのか。 類題:子供はどうやって言葉を覚えるのか。 ## 心理学者の主張 過去に見た多くの赤や円に似たものの記憶を寄せ集めて(連合し)、集合的な知識として赤や円を得ている。そうして得た集合的な赤や円を、現在目の前にあるそれに投射し、比較して、それを赤や円だと言っている。(追憶の投射) ## メルロ・ポンティの主張 赤や円がまだなんのことを言っているのかわからない状態で見た、現実の赤っぽいものや円っぽいものの視野はたしかに記憶としてある。しかし、視野のなかで対象になっていない。「欄外的」なものである。ある時、目の前にある視野から、赤や円と言っている意義が「おのずと現われるのを見る」[58]。他と比較したり集合し平均化したりして得るのではない。 そうして現在の目の前から見出された「内在的な意義」としての赤や円によって、過去に見ていた視野の欄外から、「あぁ、あれも赤だった、円だった」とそれを対象化する。過去の記録の視野にあった未然の赤や円を「改めて生き」ることで、赤や円だとする(想起)。 最初に「おのずと現われ」た赤や円は、現実には存在しない抽象的な赤や円であり、それを赤や円の「原本(イデア)」だとすれば、「この原本こそ知覚そのものなのである」[57] この原本としての赤や円は抽象概念であり、「赤」「円」という言葉そのものである。子供は言葉を集合的知識の平均値として得るのではなく、ある時、眼の前にある一つのそれが赤や円であることが「わかる」。それを他の複数の類例に照らしながら、微調整がなされるが、それは後工程である。光学的な特定の周波数や数学的に定義される特定の曲線のことが「赤」や「円」なのではない。 ## 問題2 地の上に図がある。図の下は「見えない」が、地が続いていると「見える」。なぜか。 類題:一度も見たことがないが自分の背後にも世界があると思える(何もないとは思えない)のはなぜか。 ## 経験主義者の主張 見えないものは存在しない。図の下に地が続いている「と見える」のは単なる隠喩である。図の下に何かがあるように見えるとしたらそれは心像である。心像は過去の経験で「見た」ものの記憶である。記憶である以上、現在見ている感覚よりは弱い。 ## メルロ・ポンティの主張 あくまでも「図の下に地が続いていると見える」という全てが知覚である。背後にも世界があると思うそれ自体が知覚である。そのような構造そのもの(世界)を得るのが知覚である。 パソコンのモニター上に「デスクトップ」があり「フォルダ」がある。これらは隠喩である。物理的に存在しているのは、各種の周波数を持った光点の並びに過ぎない。経験主義者はこれと同様に、人間が生きている世界全てを「三次元空間内に並んだ素粒子(アトム)である」と主張するだろう。そして自らは、その空間を外部から観察する科学者の立場に立った純粋思惟とするだろう。 この主張に反駁することは、理屈上は不可能だが、果たして我々はそのような世界に、そのように生きているだろうか。我々はたった一つの純粋思惟ではなく、自らの世界において自らの世界を生きる実存たちである。その実存が知覚して見出した「赤」や「円」などの抽象的な原本(イデア)を使って、抽象的な「物理学的世界(科学的世界)」を構築し、その抽象的世界をモデルとして、現実の事物を説明しているだけだ。むしろ、経験主義者の言う客観的世界こそが、人間によって後から見出されたもので、人間が現象学的に生きて知覚することを前提としている。 ## 問題3(余談) その、我々とは何か。 ## メルロ・ポンティの主張? 我々とは、論文的な、合理的で客観的な唯一の思惟主体の代名詞ではなく、複数の実存として生きる「私たち」のことである。 推測として、メルロ・ポンティは「私」と「我々(客観的思惟主体)」「我々(私たち)」を使い分けているかもしれない。また論文的な「我々(客観的思惟主体)」を使用していないかもしれない。 ## 問題4 輪郭とは何か。 ### メルロ・ポンティの主張 地と図の構造全体を得る(知覚する)際に生じる「内在的な意義」の一つ。輪郭は、図に「属し」、地には「属さない」。この輪郭の所属の違いが、地と図の構造である。 ## 問題5 全体とは何か。 ### ゲシュタルト心理学 要素の集合ではなく、それ以上のものである。全体を要素の集合だとする「連合」主義は間違っている。 以上 Share: