【22】『ためらいの倫理学』第1回レジュメ

第一回 内田樹 「ためらいの倫理学」講読ゼミ 配布資料  作成:小林

◯全体所感

 ぼくが本書を読むことで結ばれる内田樹像は、自分の感覚に対する大きな信頼感を持ち、その快不快の根拠について力づくで納得させられる腕っ節のある人、だ。内田樹の論客としての腕前もそこにあると思う。

 それは自分の感じた違和感あるいは共感を多数の人が理解・納得あるいはそれらができそうだと思えるような語法を扱えることだといいかえることもできる。そう思う根拠というか、読み込む中で感じたぼく自身の違和感が先にあって、あとづけでこんな風に所感として書いているだけのような気もするけれど、とにかく、そう思った理由として内田が冒頭で多用する『戦争』とか『性』という漠然とした煩雑な問題に対して言う「困った」とか「いやだな」とか「よくわかんないな」という話し言葉風の自身の立場の表明と、その後の国内外の著書を引用していく展開でかもしだされる有識者っぽい雰囲気がある。

 久しぶりにゼミでレジュメを書くにあたって、やっぱりぼくは、著者がどこからどのように文字を連ねているのかに興味があることを自覚していて、だからここに自分なりに著者に迫っていく道しるべを残してみようと思う。


◯古だぬきは戦争について語らない

 一番最初に読んだときには、ものの見事に内田樹の考え方や見方に沿ってページをめくり、まるで内田樹になった気分で読み終えていた。今、それこそが内田の優れた手腕の結果だと思っている。

 「戦争について何か言え」と言われれば、おそらくぼくも「困った」ことになる。「でもそれにはちゃんとした理由があるんです。」と続けて読む時には、「おおどんな理由だろうか」と思っているけれど、「こういう問題に『賛否の判断をするのに十分な情報』というものはありえない」ときたときには「そうそう、そうなんだよ。ていうかそれぼくも読む前から知っていた気がするけどうまいこというな。」ということになって、内田樹の言い分を聞いているのか、自分の考えを確認しているのかわからなくなっていた、のだと思う。おそらくは、それを半々程度にしているのだけれど、自分の思考の足跡を違和感なく追わせることで自分と同じ視界を見ている気分にさせる、というのは商業的に成功するための書き手としてとても優秀な才能だと思う。

 でも「ただ読んで」いくと、具体的にいえば、19ページのアメリカ人が賛否の立場をはっきりさせる理由について、ぼくはアメリカ人が何かを信じている結果というよりは、言語的にyesとnoをはっきりさせざるをえない影響や、そういう中でyesとnoを戦わせることでより良い選択肢をつくろうとし、またつくってきた敬意の方が大きな理由だと思っている。けれど、「一定の知識や体験を持てば物事の正否がはっきりと分かるというのは誤りだ。」という主張には、まったくそのとおりだと思う。「そういう人ばかりの中で、自分の感覚を元にしながら議論に参加する気にならない。」という内田の感覚にも共感する。

 で、内田の感覚について概ね賛成をしながら、その正しさの根拠となる事例や出来事については、なんとなく正しそうとか、よく分からなくてもこの人ならそう間違ったことは言っていないんだろう、という雰囲気で飲み込んでいくことになる。事実、内田の主張にはぼくにとって「それはちょっと無理矢理じゃない?」とか「この一点だけでどこまで引っ張っていくんだよ」と思えるようなものがあるけれど、それぞれの主張に対して「間違っている」と指摘することは難しい。

 ぼくは5,6年前に内田樹の本を片っ端から読もうと集めていた時期があったけれどあるときに飽きがきて、その理由はここにありそうな気がしている。

◯応答責任と受験生

 58ページ「おい、革命するんじゃないのかよ。」とか63ページ「ちょっとまってほしい」、64ページの(なぜか)関西弁で語るアメリカ人の老人の声などに、内田樹の身体性が乗っかっていて、声がはっきりと聞こえるような書き方の個所では、自分の体感とほとんど違和感なく内田樹の身体性を借りてそのまま問題に触れている気分になる。かとおもうと、その後に続く65ページ「ある政治的私見が公共的な・・・」の段落のような論文風の論理だった流れに突入して、それが66ページ「(わたしは一度も体験したことはないが・・・)」というマイルドな表現の含まれた結論で不時着する。

◯戦争論の構造

 「裁きのあとに、自分が切り裂いてしまった同報の傷跡に包帯を巻くために戻ってくることがなければ「赦し」と「慈愛」が伴わなければ、アーレントはホロコーストの「傷」の経験に正しく向かったことにはならない」[125]
ここで内田が扱っている重要な違いは、自分の生れた国で起った歴史的な出来事や、その当時生きていた人を、自分のことと切り離された存在として扱うのか、まったく切り離された存在として扱うのか、という違いだと理解した。ここまできて、ぼくにとって、内田の主張について感覚的に理解できるが、思考的に理解することが難しい理由として、思考的に物事に迫る手つきが英語っぽいからではないかという仮説が浮かぶ。わざわざ切り裂いておきながら包帯を巻くために戻ってくる、という状況にぼくはあまりついていけない。自分の身を傷つけながら、その痛みを味わい、じっとそれに耐える、というくらいならまだ分かる。

◯男らしさの呪符

 148ページ「「野生の思考」がそれぞれの「聖なるもの」を有しているように・・・」、149ページ「分かりやすく言い換えよう。「男だろ」と言われて友人になけなしの換えを貸してしまう男は・・・」という個所について、。






内田樹『ためらいの倫理学』第1回レジュメ

2016/09/25 作成:大谷隆

「まえがき」にあるように本書は内田樹の最初の単著であり、いわば「デビュー作」である。デビュー作は、世界に対してその著者が「出現」することを意味する。それまで存在しなかった内田樹という「言語」が世に出たとも言える。現在では、内田の著作は大量に出版されているが、その原点とも言うべき本書から内田樹というものを見ていきたい。

まえがき

おそらく、そのころにメディアの一部に、「専門家」ではなく、「素人」でもなく、その中間くらいの言葉づかいで評論的な文を作る人間に対する需要が存在したからであろう。[9-10]

この「専門家と素人の中間」的な語法を内田は見出そうとしている。

「生活者の実感」のステレオタイプにも、「専門的知見」のステレオタイプにも回収されない、「ふつうの人の、ふつうの生活実感」に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)[12]。

内田樹の本がなぜ読みやすいか、それでいてなぜユニークなものに思えるのかは、ここに集約される。平明で「ふつうの人」の実感に基礎づけられているから読みやすく、にもかかわらずステレオタイプに「回収されない」からユニークなのだ。

本書において、内田樹は論争に極めて強いのが読み取れる。スーザン・ソンタグに対しては、「戦争による犠牲を少なくしようとして現地へ赴き、理路を整え、旗幟鮮明にして行動する」というやり方自体が「戦争による犠牲」を撒き散らしているのだ。藤岡信勝に対しては、「自虐史観」を攻撃する藤岡自身が、現代の日本に対して何より自虐的なメンタリティーを持っているのだ。と。いずれも相手の自家撞着性(矛盾)を使って叩くというやり方で、相手の力が強ければ強いほど、相手は打倒されることになる。

ここを詳しく見ると、内田はまず、ソンタグの論の中枢を次のような「攻め」と捉える。

要するにソンタグは「私は現場をよく知っているし、この目で見ているから、戦争について発言できるし、立場も持てる。そうでない人間たち(・・・たとえば私のような人間)は意見を言う資格がないから、だまっていろ」と言っているのである。[23]
これに対し、通常は「現場を見ていなくても意見を言う資格はあるのだ」という反論を組みたくなる(その行き着く先は力比べの罵倒合戦だろう)が、内田は次のように構造的に「受け止める」。

私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定に入れない。そうではなく、その人が自分の知っていることをどれぐらい疑っているか、自分が見たものをどれぐらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれぐらい意識化できるか、を基準にしている[25]

この「受け止め」は、前述のような反論と違い「知性というものへ向かう心性」そのものを捉えたメタな構造なので、相手が知性を用いる以上は(相手が知性を用いないという選択肢はもともとないことは内田は重々承知)、論としての「力」は必要なく、構造として支えられる。これで完全にソンタグの攻めは無力化する。

その上で、角度を変えて力を使いソンタグの立場そのものを崩す。ソンタグが現場にまで行って求めた「発言できる立場」、「だれかが戦争を起こし、それにたいして助けに行くという騎兵隊的立場(主体)」そのものを狙って、

「だれか」が戦争を始めた。「だれか」が戦争を終わらせるべきだ。問題は「だれか」を特定することだ、というソンタグのロジックには「私が戦争を始めたのではないか?」「私がごく当たり前のようにここにいるということが、すでに誰かの主体性を侵害しているのではないか?」という問いが抜け落ちている。(略)それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味していないということである。[33]

これに対しては、おそらくソンタグは「それは議論のベースラインが違う」という肩透かし感とともに「やられた」と思うだろう。ソンタグの文自体を読んでいないが、おそらくソンタグは、ある不条理な事態を「知ってしまった」以上、放置することができず、いてもたってもいられなくなり、何かを成そうとして行動した。ということだと思うけれど、その「いてもたってもいられない」感じ自体にまで食い込んでしまう。

この内田の語法は、「専門家」と「ふつうの人」の間のどこかのある地点に位置する「中間の人」というだけでは用いることができない。「専門家」と「ふつうの人」を含んだ世界全部を「使った」語法であり、戦争(への恐怖)と知性の間に「半身で」存在しながら繰り出す語法である。

戦争論の構造

章タイトルでもある「なぜ私は戦争について語らないか」の直接的な答えはここにある。

「戦争について分析的に語っている当の言説自体から戦争が生じることがある」というパラドクスこそ、以下の論考で戦争論言説を吟味する際、私たちが決して忘れてはならない自戒の言葉である。戦争が国民国家と同時的に生起する現象である限り、私たちの紡ぎ出す言葉や論理が、国民国家内部的な言説市場を行き交うものである限り、どれほど善意に溢れていようと、どれほど怜悧であろうと、それらの言説が国民国家という「想像の共同体」に濃密な「リアリティ」を与え、「敵意と憎悪のエネルギー」を備給してしまう可能性からは逃れられないのである。

「戦争について分析的に語っているつもりでいる当の言説」はほとんどの場合、「原因の究明」をめざすことになる。しかし、戦争であれ、民族浄化であれ、粛清であれ、「だれが」それを起こしたのかと問うことは、論理的に見えて実は実践的にはほとんど無効である。というのは、「私がそれを起こした」と思っている人間が、一人もそこにはいないからである。全員が「自分は潔白であり、被害者である」と信じ、そう言明する人々の間ではじめて破壊的な暴力は発生する。もっとも危険な暴力の培地は、相手に対する悪意や敵意ではなく、自己の無垢性に対する信憑なのである。[88-89]

そして「自己の無垢性に対する信憑」ではなく、加藤典洋の「ねじれ」を保持し「対立者を含む形」で人格を再統合することを、その先に内田は求める。

(加藤は)「汚れた死者」を汚れたものとして、どのような正当化も試みず、「無意味なままに哀悼する」ことを主張している。そのような「哀悼する主体」だけが、自己卑下することもなく、居直ることもなく、淡々と「国際社会で侵略戦争の担い手たる責任を引きうける」ことができるのではないか。[99]

この哀悼は、「裁き・正義」だけでも「赦し・慈愛」だけでもなく、

レヴィナスが説いているのは、この慈愛と正義の終わりない循環である。「裁き」と「赦し」のめまぐるしい交替である。それがレヴィナスのいう他者経験[125]

によってなし得る。内田の言う語法として言い換えれば、「裁き・正義」という審問の語法ではなく、

「裁き」と「赦し」を同時に果たしうる「物語」の力にもう一度だけ掛け金を置くこと[129]

によって、「無意味な死者をその無意味さのうちで哀悼する」という鎮魂の儀礼がはじまる。

僕にとって内田の興味深いところは「戦争」といった高圧な問題を、語法の問題として捉えているところで、内田にとって語法とは、

というのは、「審問の語法」というのは、「被害者から加害者へ」「検察官から被告へ」というふうに一方的にのみ流れるものではなく、ある場を領する言説形式そのものだからである。(改行)だから、「審問の語法」の支配する場では、「審問される者」もまたそのまま「審問の語法」をおうむ返しで繰り返すことになる。(略)
その閉塞感に私はどうしてもなじむことができない。

だから、「それとは違う言葉づかい」で同じ論件を語ることはできないだろうかと自問するのである。[54-55]

というもの。語法というものがある場を領する「言語形式そのもの」であり、その場の人を強く規制しうるという認識を内田は持っている。「それとは違う言葉づかい」を希求し提示しようとすることに、内田が現代において言論空間で様々な問題に対して臨界的・境界的に立ちうる重心があると僕は思う。この重心のあり方によって、内田はさまざまな境界に立ち、ほぼ無限に言葉を紡いでいく。

以下は感想的でもあり、また2回めの内容のほうがあっているかもしれないけれど、文としては続くので書いておきます。

語法について直接的に語るのは、内田自身も後で書いているように、その語りそのものがすでに語法の規定を受けてしまうため、無限循環に陥る。ので難しい。から、そういう無謀な挑戦している文章はだいたい面白い。

例えば前の文の「ので難しい。から、・・・」というような付け足しは(それ以前の文の)語法そのものからなんとか逸脱して、その語法(それ以前の文)を相対化しようという試みなのだけれど、日本語はこういうことがやりやすいし、やってしまいやすい。内田はフランス語に翻訳できることを意識して作文している(出典忘れました)とのことだけれど、これは語法にとっては大きな影響を及ぼしているはずで、そういった制約が内田の語法、ひいては内田に語法的な「強さと安定」を与えている。

内田の文体は、淡々とリズムも音域も変えない文体で、それは「誰がなんと言おうと私は私だ」という意志の強さを感じる。内田は「回収されない」語法を目指した。その結果、内田の文章において内田自身は「誰にも回収されない」が、読み手は「内田に回収されてしまう」感じを受けてしまう。文意の層で開き(無限に言葉を紡げ)、文体の層では閉じた感じ(安定感)があるのは、内田自身がそれを狙っているからだと思う。

僕にはこの文体の層の閉塞感に、(内田自身が嫌っていると思われる)「自分は無垢である」感じを感じてしまうところがあって、そのダブルバインドも含めて、語法や文体について語ることはやっぱり難しい。

内田の本を読むといつも感じることだけれど、内田の特徴として「いつも同じことを(別のテーマで)言っている」。これは内田自身も認めていると思う。キワキワのところに立つ重心(語法)を持っていれば、どんなキワキワでも安定して居られる、ということだと思う。このことは読者にとってもとても心強いことで、内田の文章の安心感はここにある。

ということはよくよくわかっていながら、僕はきっと、時々踏み外して崖から落ちていくような、それとともに読み手もいっしょに落ちていくような、そんな文章も面白いんだけどなと思っていることを自覚する。

そして、たぶん内田もそう思っていると思う(サルトルではなくカミュを好む)。ただどうしても、自分がカミュが好きだということをサルトルの方法(喧嘩に強い語法)で語らざるを得ない、のはどうしてなんだ、ということで、そういった、やればやるほど外れていく感じが「ためらい」の底流にある気がする。「聞いてくれ。なんだかわからないけれどこの人が好きなんだ、なぜならこの人は」と語りだしてしまった瞬間に、矛盾が「すでに」立ち上がっている。このことをまじめに書こうとしてくれているということに僕は内田の「かわいらしさ」を感じる。




『ためらいの倫理学』内田 樹 クリシュナプリヤ 2016-09 25

タイトル:

『「形にする」ということと「批判する」ということの 価値 ・・が私の中で変わる』

★私は、書くことを避けてきた。が、私は、書きたいようである。
だから、ここで、いま、一行でも、「書く」をやろうと思う。

(「私は一体 本をどのように読んでいるのか?」についてもまた書いてみたい野望アリ :また次回)


★私は、いま、というか以前からずっと、「書く」ということを避けてきている。
それは、私にとっては、形にすることを避ける、ということだ。

形にせずにおくこと。
それは、マナ板に乗る、ということを避けらる、ということだ。

ここに書いていて今わかってくるには、
私にとって、形にするということは、とうとう、自分の姿についての何らかの手掛かりを与えてしまうことであり、「自ら、何かを言われる機会に自分を曝してしまうこと」
だった
書くということだけではない。私は、あらゆる面で、「形にすること」を避けてきた。

★固体化(物質化)をしないでおくこと。
物質化せずにただ波動のままで存在させておくこと。

それは、私にとっては、動きながら常に変化してゆくものを、変化の最先端(最新)の状態で感じ続けることであるし、また、他人から不用意に触れられる可能性がない、形態のままに置いておくことである。

★私は、批判することもされることも嫌いだ。苦手だし、人のそういう話を聞くことや本を読むのが苦痛に感じることが多い。

自分の中に生じる、批判、のエネルギーも、苦手だ。(昨夜まで、そうだった)

理由はわからないが、子供の頃から、その感覚が苦手だ。身体の中で感じる感覚に、苦くて雑味があって、ダメだ。そういうときの自分も、パワーや向かっていく力は感じるが、思考のクリアさがなくて(そういうときの私は、視界が非常に狭くなる)、私の場合は、夢中なのだが非常に頭が悪くなる。

★だから、私は、この本(一冊通して批判?)も、非常に苦手に感じている。(感じていた)

自分がこれに対して何かを書こうとすると、批判になってしまいそうだった・・ことも、大変居心地が悪い。(悪かった)

★まず、誰かが先に何かをやる。誰かが何かを書く。

その後で、それをマナ板に乗せる(批判する)ことが可能になる。
誰かがした行動や、先に書いていてくれたものがある。

すると、それを読むことによって、「自分」の中に現れてくるもの(心地よさまたは不快を含む)に、触れることができる。

誰かが表出してくれているもの。
が、まず、先にある場合、
その作品(主張・意見など他)に触れることで、私はそれへの私の純粋体験 を得る。

先に現れている形、誰かが現わしてくれた、或いは自分が現した形があって、私は、私のその対象に対する自分の体験について、感じたり、書く、ことができるようになる。

★私は、この本に身体を沿わせることが出来なかった(それをするのが非常な苦痛である)ので、この本の文章を読むことが、私にはできなかった。(お腹に乗せてチョットだけ感じることまでで限界だ。それ以上乗せていると自分の整合性が崩れていくような不快感・クリアでなくなっていく感覚がある)

吉本隆明さんの本は、読めないのは同じだが、ずっとお腹に乗せていてもいい(心地よさを感じる・自分が整っていく感覚・何か素晴らしいものに繋がるような感覚・整合性のあるしっかりした構造、広大な大きさ、自分では視得ない世界観の広がり等がもたらされる感覚がある)。

★私が、批判されることやすることを、こんなに避けたいと思わなければ、 書く ことを、こんなに避けていなくても、よくなるのではないのか?

私自身が、
何かを批判する気持ちになるときに、その何かがもう「形になっている」ことや、誰かそれを「形にした人がいる」ということに、
もう少し敬意を払うようになれば?

★私が書くことで好きなのは、
誰かにそれを伝えるという面ではなく、自分の中で、それが、進化を遂げていくことができる、という部分だ

書くと、
この内田さんが、上野さん達が作ったものを通してしていることを、自分で、やることができるのだ!?

と、思うと、この本に感じていた嫌な雑味への嫌悪の感覚が、少しだが、軽くなったような気がした。

Share: