【20】吉本隆明『心的現象論序説』第2回 レジュメ

2016/04/13  配布資料 作成:小林健司

Ⅱ 心的世界をどうとらえるか


ビンスワンガーやヤスパースのフロイド批判は、生物体としての人間なくしてはどんな心的現象もないという意味では欠陥をあらわにしている。しかし、すべての心的現象が、生理(性生理から脳生理まで)現象に還元できるとはかぎらない心的現象の本質を考える時に正当だというべきである。 

(心的現象は生理的現象によって了解可能とするなら)生物体としての人間が、個々の細胞の確率的な動きのメカニズムを把握しうるようになったとき、心的な存在としての人間は、すでに〈把握しうる〉ということをも把握しうる塁乗された心的領域を累加している。そういう前提をその把握が包括しているからである。

(リビドーも含む)生理的現象が、「原因ではありえても還元すべき基底ではありえない」とはどういうことか。

原因:①ある物事や状態を引き起こしたもとになった事出来事。②ある事物を成立させるもととなった物事理由。 
基底:基礎となっている事柄。基本。根底。
なにかを引き起こしたり成立させるような出来事や理由が、その根本だという理解はしがちなことだと思う。(組織の仕事では意図的にそういう説明をしたり、そのように思い込んできたことを思い出す)ぼくが滋賀に引っ越すことになったのは、**さんという人と知り合いになったからで、その人が家造りを何度もしている人だった、という結果と(直接的な)原因から、人間関係や幅広い交友関係がそういった出来事の根本となることだ、とした場合に本質からずれこんでいる、という例によって理解を試みる。

もっと単純化して、以前ゼミで話していた、Aが引っ越したいと思っていたところ、Bが空き部屋をかかえて都合よく引っ越せた。と言う場合でも、引っ越したいと思っていたことと、空き部屋ができたことが原因となるが、それらは「AがBの空き部屋に引っ越しをしたこと」を丁寧に見るために還元すべき基底とはいえない。

脳生理学者や神経生理学者のうちには、心的な領域の時間性が、身体の神経伝達の速さの時間性のちがいであり、知覚現象の空間性が感官の外界からうけとる神経の受容性と脳中枢における対応する個所の翻訳作業の結果であるかのようにかんがえたがる傾向も存在する。しかしそれはまったく誤謬である。なぜならば、心的な領域は、このような生理機構への還元が不可能な領域だからこそ、はじめて人間的に存在する心的領域とよびうるからである。 

ここで身体的な疎外された心的領域としての時間性というのは、ある瞬間的な空間の連続した連なりのことで、その意味では心的な空間性と言っても良いと思われる。現に、後には空間性と時間性は重なったりしている。

この記述から想起するのは「言語にとって美とはなにか」の戦後表出史で、自然にも身体にも還元できない領域の表出こそが、人間の独自の精神世界を表現している、ということを言っている。

一瞬の出来事をまるで数十分のように感じたり、未だ見たこともないような空間について本を読んだ時にイメージできることなどが、生理学的な理解の届かない領域だと思われるが、もう少し例を考えてみたい。

観察から〈異常〉または〈病的〉な世界を了解し組み立てようとするとき、自己観察と人間理解がゆいつの手段である。だから自己が自己の心的世界を対自化する能力の多少によって、観察は左右される。 

正常と異常・病的を判断する基準として、ここまでに(財力の多少など各自の生活環境という個別の事情が含まれる) 生活、(なんらかの欠損などを異常と判断するような)個体、(個体の特定の行為を類推などでむすびつけて判断する)気質、などが、いずれも身体と外的環境の両面から疎外された独立して存在する構造という位相からは的が外れたものとして退け、判断の基準は自己の中にしかないとする。

じぶんを無限の遠点に仮想的において、他者の心的構造の総体を無機的対象のように観察するという場合をひとつの極限とし、じぶんの心的世界の構造をすべて喪失して、他者の心的な構造にまったく同一化するという場合を無限遠点のひとつの極限として、この中間でしか〈おかしい〉とか〈病的〉だとかいう印象を受け取ることができないことがわかる。

極限の前者は、じぶんの心的世界を一切崩さずに観察者となることで、後者は書いてある通り自分の心的世界を全く喪失して他者に同一化するということだ。完全に同一化してしまえば〈おかしい〉と思うことはできなくなるから、じぶんと相手の心的世界の違いをどの程度の距離で見るか、ということになるだろうか。そして、吉本が自身の体験談として紹介しているように、それは相互に同じ程度違っているので、どちらかが〈おかしい〉と思うときには、相手も同じ程度に〈おかしい〉と感じる理由が生じている。

わたしたちは、この相互規定性を治療体系に還元する方法が歴史的に累積されたものを精神医学とよんでいる。そしてこの体系の妥当性は他者に伝達可能な歴史的累積に還元しえたという一点にかかっている。

このあとにつづく、数字やアルファベットに色があるという症例における〈異常〉性は、「色と文字は位相が違っている」と認識されている現在の社会において異常だと「診断」できるということになる。

Ⅲ 心的世界の動態化

このような(対象と意識が結びついて分けることができないような)心的な領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての〈身体〉と現実的環界とが実在することが不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。

基底について説明しようとするとき、禅問答のような落ち着かない理解で踏みとどまることを要求される。ある出来事や事実が引き起こされる原因や理由はどれだけでも言葉を追加して説明していくことができるが、その根本的な構造について説明するには、引っ越しの例のように、原因を前提として繰り込まれた結果だけが存在し、あたかも結果だけが独立して存在しているようにしか僕達には把握できない。






2016年4月24日 資料・発表:大谷隆 

Ⅱ 心的世界をどうとらえるか


吉本は心的な領域を捉える際に2つの対比的な表現を一貫してとっている。「生物体=生理体」的と「環界=〈自然〉」。

心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成り立たない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない。


この章で吉本がしようとしているのはフロイドを始祖に置く精神医学の限界を示すことである。フロイドのモデルの欠陥は、


フロイドの心的なモデルは、いうまでもなく人間の心的な領域が、生物体としての生理機構に還元しうるという前提に根ざすものであった。


ここから、精神医学の描く心的世界は、観察可能な挙動のみからしか描きえないが、その観察そのものが恣意的にならざるを得ないという限界を持つ。


これらの(フロイドの)〈異常〉または〈病的〉な状態の心像の理解の仕方に欠陥があるとすれば、〈異常〉または〈病的〉な心的な世界を、無条件に外部から了解可能とみなしている点にもとめられる。しかし、〈異常〉または〈病的〉は心的現象は、純粋に器質的な欠陥のみによるばあいをのぞいては、挙動にあらわれたとき観察可能なだけである。観察から〈異常〉または〈病的〉な世界を了解し組み立てようとするとき、自己観察と人間理解がゆいいつの手段である。だから自己が自己の心的世界を対自化する能力の多少によって、観察は左右される。また、〈異常〉または〈病的〉とみなされる挙動自体でさえ、この対自化能力によって左右されるといっていい。だから大なり小なりこの観察は恣意的なものになるほかはない。(改行)しかし、心的現象がそれ自体の構造をもっているとすれば、この構造は自己観察の能力に裏付けられた挙動観察では、すべてを了解できないことははじめからわかっている。


吉本とフロイドの違いは、人間の心的な領域が生理体としての生理機構に還元できないということである。吉本はさらに、「Ⅲ 心的世界の動態化」で、

いままでの考察に取柄があるとすれば、心的な世界を、人間の生理現象にも、現実的環界にも還元しえない不可避的な領域としてあつかってきたことである。このかんがえはこれからも固執するに値するとかんがえられる。


としている。「還元しえない」というのを別の(逆方向の)言い方をすれば「疎外された」となる。


生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合い)によって抽出することができる。 

吉本の心的世界の捉え方をまとめると、
1 心的領域は構造として想定できる。
2 心的領域は生理体に還元し得ない。
3 心的領域は環界にも還元し得ない。
4 生理体としての人間存在から疎外されたものとしてみられる心的領域(衝動、情緒、感情、心情、理性、悟性)は時間性(の抽象度)によって抽出できる。
5 環界との関係としての人間存在から疎外されたものとしてみられる心的領域(文化、芸術、社会、世界認識)は空間性(の抽象度)によって抽出することができる。


Ⅲ 心的世界の動態化



吉本のいう原生的疎外と純粋疎外という2つの疎外のイメージを掴む。原生的疎外に対して純粋疎外は、時間性と空間性の抽象度の度合い(grad)をベクトルとしてもつズレとして、原生的疎外から浮遊するように領域をもつ。吉本はこの原生的疎外と純粋疎外によって人間の感覚というものの規定を試みている。


原生的疎外は、
生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。

純粋疎外は、
ここで〈純粋〉化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような〈純粋〉化の心的領域を、原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、固有時間性、固有空間性とかりに名付けることにする。

このような心的な領域はあらゆる個体の心的な現象が自然体としての〈身体〉と現実環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰り込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。


それぞれの感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)はそれぞれの固有の空間化の度合い(grad)をもつと理解されるが、個々の感覚器官は、別の感覚器官の空間度の位相に侵入する可能性がある。


個々の感官の空間化度の位相に、あるひとつの構造を想定すれば、ある対象に対しては、各感官がそれぞれの空間化度の段階をはなれて、他の感官の空間化度の位相に侵入する可能性がありうると結論される。そしてこの可能性の前提となるのは、〈身体〉の時間化度と結びつくこと、いいかえれば感官の受容したものを了解とみなしうるとき、ということである。

感覚器官のうち視覚と聴覚はその他と異なることが「空間化度」という概念によって比較的明瞭に説明される。


余談的でしかも個人的な感想(いちゃもん)だけれど、相変わらず吉本の図示は混乱を招きやすいように思う。例えば第2図から第5図は縦軸に現実的環界(時間性)、横軸に身体(空間性)をとるが、第6図では縦軸と横軸が入れ替わっている。第6図の説明として、


わたしたちが第5図で描いた心的領域のモデルは、つぎのように微細化されるだろう。

ということなので、軸の入れ替わりに特に意味はないのかもしれない。また

ちょうど二枚貝が一端で閉じられた二枚の貝がらの口を開いているように、原生的疎外と純粋疎外の領域は空間化度の低い領域において閉じられる。

とあるので、第6図の真ん中下辺りで点線と実線が接していて、そこより上側に向かっては点線と実線が離れている(二枚貝)ということがわりと重要なポイントだと思うが、図的にはあまり明瞭でない。
ただ、聴視覚域は「屈折」をうけ「等質的」という言語表現は、図的には直行する直線として描かれていて、「異質」「等質」「屈折」という概念のイメージをつかみやすくはなっている。

吉本はこの直行する座標系(数学的にはデカルト座標)での説明におそらくかなり苦労していると思う。2つの直行する軸を想定し、その軸によって規定できる領域をとって何かを説明するということが吉本の考え方の基礎的なモデルなのだけれど、吉本が自身の詩的(?)な感覚に即しようとした場合、この直交座標系からの逸脱が生じていく。もともと非線形である言語的思考の図式化としては直交座標系がそぐわないと個人的には思う。
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