【18】日本文学・文学体セレクト レジュメ

2016/04/24  日本文学 文学体ゼミ 配布資料 作成:小林健司

■明暗


 津田とお延、お延とお秀、お延と清子、小林医師と友人小林、など、タイトルの「明暗」のように二対の象徴となる人物の絡み合いによって、それぞれの立場が立体的に浮かび上がってくるような印象を持った。おそらくその中心となる二対は津田とお延で、まわりにいる人たちとの関わりの中で二人の間柄がどんどん変化していく。

彼は結婚後こんな事で能く自分の細君から驚かされた。彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代わりに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀の光のように眺める事があった。小さいながら冴えているという感じと共に、何処か気味の悪いという心持も起った。[41-42]

このあと津田は、お延がなんで帰りを予期したように門にいたのか、訳を聞いてもはぐらかされることで「夫の敗北」のようになるのを避けて、すっと家の中に入る。津田とお延のやり取りは一事が万事こんな調子で、先に進んでいくにつれて、それがどのような二人の性質が交差して発生するのかがよくわかってくる。

手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕尽くしている親切は、随分精一杯な積でいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らして呉れる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。 [144]

「良人というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」(改行)これがお延のとうから叔母にぶつかって、質して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈の出来るこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲をとっているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻は何時でも夫の相手であり、又会には夫の敵であるにした所で、一旦世間に向かったが最後、何処までも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、耻ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくて堪らない時でも、夫婦から見れば、矢張り「世間」という他人の部類に入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。[145]

津田の名前が出てはいるが、ここではお延が夫婦というものがどうあるべきか、あらなければならないか、という哲学のようなものが描写されている。津田にしても、お延にしても、二人の関係を「世間」というカテゴリーに入らない親に話せない状況だという設定が、夫婦という密接な関係性の中での悩みを相談できない状況になってしまっている土台としてきいている。しかも、親は近くにいないが「世間」という部類に近い親戚と(金銭的な)利害関係を含んだ付き合いをせざるを得ない状況が、津田とお延の関係の中にも「世間」を持ち込んで関わらざるを得なくさせている。

実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでも此方を嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえ会った。自分が嫌われるべき何等のきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信を伴っていた。[153]

(津田のことを一切触れない吉川夫人に対して)お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違いないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振を、彼の妻たるものに示す筈がないと思った。[173]

おそらく吉川夫人は、嫌っているというより、ある種の申し訳なさを感じている。お延の考える「嫌われている以上の理由」がそれにあたるが、「世間」を強く気にしていることから、嫌われているという前提を最初につくってしまい、それがこじれながら一つの物語を編み上げていく。

淋しい心地が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚いた。(改行)「叔父さんは何時でも気楽そうで結構ね」(改行)津田と自分とを、好過ぎる程中の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。と云って、その隙を飽くまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さねばならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由を持っていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜まろうとした所を、彼女は瞬きで胡麻化した。[193]

この少し前[191]に叔父の前では軽口をたたきあっているお延が、津田の前では別人のように、何の努力もいらずにできる「第二の天性」という態度を取れなくなる。[182]で、津田が病院に行って留守の朝、寝過ごしてしまったけれど、不断の窮屈さが思っているより重たいことに気づいたり、逆に夫が留守の朝にのんびりと、らくらくとした心地になっていることと対応しているように見える。それは、[194]にあるように、叔父と一緒にいるのと津田と一緒にいるのでは勝手が違っていて、お延から見れば叔父以外の勝手をしらないから、津田に合わせるか、津田に合わさせるかしか選択肢がなくなる。[215]では、叔父の仮定した軽口に耐え切れず、ついに涙を流してしまう。津田とお延は世間体を気にして、意地っ張りなところで同じ気質のように見えて、人の前で泣けてしまうお延のほうがカラッとしているように見える。

「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」(改行)津田に取ってそれ程容易い解決法はなかった。然し行き掛かりから云うと、これ程また困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それに出来るだけの満足を与える事が、また取りも直さず彼の虚栄心に外ならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角に於て突き崩すのは、自分で自分に打撲症を与えるようなものであった。お延に気の毒だからと言う意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。[311]

二人は何時になく融け合った。(改行)今までお延の前で対面を保つために武装していた津田の心が吾知らず弛んだ。自分の父が鄙吝らしく彼女の眼に映りはしまいかという懸念、或は自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、成る可く京都の方面に曖昧な幕を張り通そうとした警戒が解けた。[367]

続けて、津田が必死になって財力があるように見せる動機を「黄金の光から愛その物が生れるとまで信ずる事の出来る彼」と表現される。ここまでで、おおよその二人を取り巻く状況と、そこから生れる二人の性質、そして二人がどのように関係しあうのかということが示され、既にお秀がそういった構造を崩すきっかけとなる出来事をもたらしているが、掲載中のところまでで友人小林、清子、吉川夫人が、代わる代わる二人を揺らし続ける。

作中の人物の配置や、意味がなさそうで布石のように後から響いてくる内面や風景の描写、それらがタイトルの「明暗」のような二対の関係をとりあって物語がすすんでいくことなどから、漱石はこの作品の主要な構成をかなりはっきりと持っていたのではないかと思える。熊倉千之「漱石のたくらみ」では、漱石は各回で起こる出来事を決めていて、エンディングまで一つずつ石を積むように書き上げていっていると推測している。どこまでその読みがあたっているのかを議論できるほど読み込めていないが、あたらずとも遠からずなのではないかと思う。それにしてもすごいとおもうのは、ぼくが円坐や日常の中で感じる相互に影響を与え合うような関係性のことや、それらが当人にも自覚できないような反応として湧き出てくることを、おそらく漱石は明確に掴んでいたと思えることだった。


2016年4月23日 資料・発表:大谷隆 


森鴎外『舞姫』

同じ本に収録されている他の作品と比較すると、美文調はかなり緩和され、主人公の内面の描写の自由度が上がっていることがわかる。美文調にも、落語や講談とは異なるが、リズムがあり、その型に当てはめている感じがあるが、「舞姫」においてはそのリズムの型はかなり崩れている。
すでに起こった出来事を過去から順にスキャンしていくような時間の流れを感じる。終わりは「どこかでブツリと終わる」しかない感じがある。すでに巻物には出来事が描かれており、その巻物を開いていくような感じで進む。物語自体が一字一字「創出」されていく感じは薄い。「浮雲」の場合も同様に、すでにある物語を講談師が述べていく感じがある。

夏目漱石『明暗』

登場人物の内面の描写はかなり深くまで及んでいて、『舞姫』から格段にそれが進んでいる。ほぼ現代での自由度を獲得している。ねっとりとタールが滴り落ちるように描写が登場人物の内側へおちていく印象がある。未完であることの影響もあるが、物語は人間関係があるかぎり永久に続く印象があり、少しずつ人物の造形は変化していっているようにも感じる。
油粘土を手の中でぐねぐねとこね回し続けているような感じで、『舞姫』では、すでにある出来事を描写していくだけだったものが、小説の進行に合わせて変化、創成されていく感じが生まれている。

三島由紀夫『金閣寺』


描写しにくい人間の内面を如何にして描くか、ということを通り越し、もはや内面そのものの有り様を描写によって構築していくような感じすら受ける。精密に四角張った描写を積み上げていく印象がある。『明暗』での粘土のようなやわらかな物体をこねていくことで創成されていた雰囲気から、作者が全くイチから結晶化させたものを構築していく感じにまでなっている。


文学とは

文学や小説は、一つ一つ個々の作品の「感じ」「雰囲気」を作り上げていくものであるといえる。この雰囲気は、物語の展開や文体の総合的な働きによって生じる。この雰囲気の作る上での作者の自由度の向上が、吉本隆明の言う表出面の上昇という意味だろう。新しい文学は、新しい社会の雰囲気を空気としてその作品内部に作者の意識と言語ネットワークを経由して流しこまれる。それは作者の意図している部分もあれば、意図せずに流れ込むものでもある。
作品の優劣はともかく、現代的な出来事を現代的な意識で描くことで、必然的に現代的な文学となる。
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