2015.11.21 作成:北村
Ⅱ—贈与と交換を体験する子ども
第5章—子どもの前に他者が現れるとき【5−1 「教育問題」という物語】
「教育問題というテーマは、問題に先行し問題を問題として構築するある構えを想起させる」[98]・「ある構え」
=「『登校拒否』『いじめ』『校内暴力』『学級崩壊』と名付け、問題として捉え、それを教育学的・心理学的・社会学的観点から分析し、有効な解決手段を提示しようとする一連のプロセスを発動させようとする構え」
=「医学的な問題解決モデル」に立った構え
→子どもの理解という課題を前に、「学問的な困難さに直面している」
→なぜならば、客観的な記述は記述者が「ある歴史的・政治的に限定されたポジションに立って、『物語』として『現実』を『再構築』すること」に他ならないからである。
→しかし、それが「信用のおけない主観的な思い込みにすぎない」という結論には直結しない
「反対に、子どもについての記述もひとつの物語であるという自覚から出発するとき、記述者に新たな構えが可能性として開かれることになる。この新しい構えに立つとき、これまでの子どもについての記述の機能が変わるばかりか、記述の価値をかはる評価の基準も異なるものとなる」[100]
・「記述の機能」=「描く者と描かれる者との両者の生の変容をもたらす」
・「評価の基準」=「生の変容がその記述によって実現されたのか」どうかということ
「物語であることを自覚する『限界の教育学』の作者は、作者自身がテクストのなかの時間に定位し、子どもという他者との出会いを、自身の生の変容との関わりで、自身の生涯全体の課題として物語を製作することになる」[101]
→宮澤賢治の心象スケッチからそのヒントを得られる(「社会化—発達を中心とする教育の物語を超える方向を、垣間見ることができるとともに、そのような出来事を言葉でもって描き出す可能性を見ることができる」)
【5−2 他者が出現する子どもの物語】
「共同体の外部から来る他者との出会いこそが、子どもを共同体の外部への連れ出し、生成と関わる垂直の次元で子どもを深く変容させる」[102]
◯『種山ヶ原』
夏休みの最後の日、達二は、霧のなかを牛を追いかけているうちに、道を見失ってしまい、いつのまにか草のうえに倒れて眠ってしまい、四つの夢をみる。
・「夏祭りでの剣舞の夢」
…「達二たちは、剣舞によって時間を超えて歴史と伝説の世界と融合し、共同体建設の原初の時間に立ち戻る」[104]、すべて方言
・「新学期の教室の夢」
…夢を見たのが「境界の時間」であることに注意。標準語。「学校と共同体は、子どもの形成をめぐってライバル関係にある」学校→子どもをできうるかぎり抽象的な存在に維持しておきたい 共同体→子どもを農民や商人や職人といった共同体内での「一人前」の大人にしたい
・「可愛らしい女の子の夢」
…「女の子が示しているのは、共同体成立以前の外部性」「人が死を意識し死体に関わるタブーを生みだすことによって、人間としての動物性から離陸したとするなら、女の子のもつ外部性の次元は、共同体成立以前のみならず言語成立以前の次元と結びついている」[109]
・「山男を殺害する夢」
…「この殺害は半身同士の戦いの結果としての殺害であり、兄弟殺し」[110]【5−3 外部の他者との出会いと自己の変容】
・第一の夢=イニシエーションの経験−体験、達二と世界とのそれまでの関係の在り方を根本的に変容させる引き金。共同体の一員となる。学校の秩序との間に微妙な異和を作りだしてしまう →第二の夢をみる
・第四の夢=第一の夢でみた祭りにおける悪路王の殺害の再現が、第四の夢で山男の殺害という形で繰り返される
・第三の夢=第一の夢がもっていた死と生に関わるモチーフを、社会化のレベルではなく垂直軸の次元で深化する形で表している
◯賢治の擬人法
「星座、銀河系、鉱物、植物、昆虫、動物、さらには雲・霧・雨・風・雪……といった大気の諸相。この交感の体験の表現を実現しているのが、賢治の擬人法」
「ポリフォニックな語りを可能にする生の技法」
「人間の方が世界かされる生の技法」
「自己がどこまでも拡大して世界を覆い尽くすのではなく、自己と世界との境界が溶解してしまい、自己が世界化し、同時に世界が自己かしている」
「世界の方が基準になって作られており、人間の方が宇宙の全存在者から召喚されている」
「人間から(…)特権生を奪うためにこそ擬人法が機能している」
「自己解体の危機を招くとともに、垂直の次元の生に触れ自己変容の可能性を開く」
・第三の夢=「名前をもたない女の子が、誕生以前と死後とを示しているとするなら、誕生以前と死後の状態というのは、もっとも極端な在り方で『世界』の一部そのものになることである」「そのような共同体の外部を表す他者の出現によって、前の夢との間に位相的な切断点が作りだされる」
・第四の夢=「『打つも果てるもひとつのいのち』の歌が示すように、達二と山男のどちらもが『ひとつのいのち』であるような共同体の外部である『世界』の次元へと、突き抜けていくための闘争」「第一と第二の夢は、共同体の一員となるという社会化の次元でのイニシエーションと関わる夢であったのにたいして、第三・第四の夢は、共同体を超えた世界へと開く次元でのイニシエーション」
「こうして賢治は、読者である子どもたちに、共同体外部の他者が何者であるか、他者とどのように出会うのかを提示する。そして、子どもがもつ自己理解や他者理解の夷蛮となる物語の構造に、ひずみを入れ揺さぶるのである」[116]
【5−4 外部世界からの贈与としての賢治童話】
「もともと、賢治の童話は、作者が構想したのではなく、『林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかり』から賢治が贈られたものを、『ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたがいといふことを』というように賢治自身の身体(メディア)を一度通過させて、『そのとほり書い』たのだという。つまり、賢治の童話は、共同体の外部からの贈与物であり、それを賢治がメディアとなって、子どもに贈与したのだ。さらに『あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません』というように、賢治の童話は共同体内部で子どもを教育的に方向づけようという意図とは無縁でもある。作者は『あなたのすきとほつたほんたうのたべものになること』を願っているだけなのだ。賢治の童話は、その起源からして非人間的な外部性をもっているのである」