【09】網野善彦『異形の王権』第2回レジュメ

2015/09/19 小林健司作成

網野善彦が本書に限らず、歴史家として解き明かそうとしていたこととして、今なお目の前にある天皇制の問題(存亡の危機を乗り越えてなぜ天皇が生き残りつづけたのか)と、それにまつわる天皇史上特異な位置を占める後醍醐の果たした役割(現代に匹敵する転換期としての南北朝の動乱)、なぜ鎌倉時代に現代まで続く宗教家が続出したのか、という問いがある。そして本書もその問いに答えようとする歩みの中にある。本書とあわせて「[増補]無縁・公界・楽」、「日本の歴史をよみなおす(全)」を読み返し、改めて上記のような網野の書き手としての視点と、その視点に立ち続けようとした理由について、漠然とではあるがつかみかけてきたので、講読本と両著を併せて記していく。

(1)網野が研究を通して目指したものと転向


網野はいわゆる「マルクス主義」から転向して網野史学とよばれる独自の歴史観をうちたてたが、それは歴史について正確に読み解くほど、現在の「支配者層」(網野が多用した表現)が国家を運営する根拠としている公文書が、民衆の残したものではなく、まさにその当時の支配者が残したものであり、必ずしも事実と一致しないことが明確になったからだと思われる。しかし、網野が資料を駆使して立証しようとしているのは強い支配者と抑圧される民衆という単純な理解で済まされるものではない。少し乱暴にまとめればそれは、「戦闘する軍勢の間をぬって葬送」したり、「敵味方の沙汰に及ば」ない空間を保持しえた強力な「無縁の原理」を力の根源とした民衆と、それを封じ込めて管理しようとする「支配者層」の対立の歴史だった。

(2)「日本」という国家の成り立ちについての理解。


網野は「日本の歴史をよみなおす」で縄文・弥生時代に遡って国家の成立について言及しており、古代のアミニズム的な信仰を持つ集団が暮らしていた列島に、稲作をはじめとした「技術や文明」が「体系的に流入」したという表現をしている。特に稲作が入ってきた時代については「そうした技術を持つ集団が移住してきたことは確実のようです。」とし、埴原和郎が「約一千年の間に数十万人から数百万人以上といってもよいほど多くの人がわたってきたと考えなければ理解できない」と指摘していることを取り上げている。ここから「律令国家という文明技術が体系的に流入した」ということができる。

(3)南北朝期における「天皇制の危機」の意味


国家の運営技術としての律令制度の導入をする際の支配者層は、アミニズム的な神聖王としての側面を持つ天皇を組織の頂点に据える。そして、7世紀から10世紀にかけて「特定氏族による宮司請負制、それに伴う貴族の家格の秩序の形成」[228]がおこなわれ、「十世紀以降、(その秩序は)本格化し、十二世紀中期の画期を経てこの時期になれば、家格の序列は宮司請負制とともに、すでに牢固たる体制になりつつあった。それは動かし難い旧慣として貴族たちの活力を減退させ、公卿の合議体の機能を著しく低下させる結果をもたらしていた。」[228]

その状況から、「天皇家及びそれと不可分の結びつきを持つ摂関家の主導権が、相対的に強化されていったことをあきらかにしており(中略)実際、公卿会議の無気力と政治の沈滞は、佐藤の指摘する通り、十三世紀中葉、まことに著しいものがあった。(改行)後嵯峨の死後に表面化した大覚寺統と持明院統の抗争、両統の対立も、こうした王朝自体の活力の減退と深く関わっていた。」[229](公卿の合議体と、天皇家・摂関家を分けて考える必要あり。全体的に幕府に押し込まれていく天皇を中心とした勢力の中で、公卿合議体と相対的に天皇と摂関家の持つ権限が強まったという意味。読みにくかったためメモ。)
「さらに加えて、十三、四世紀には、なお呪術的な意味も色濃く持つ貨幣の「魔力」が人々の心をとらえ、供御人、神人、寄人等、商工民、金融業者の活動も著しく活発化していた。その間に、前述したような「異類異形の輩」を排除、抑圧しようとする動向と、それに強く反発し、あるいはそれを積極的に肯定する動きとの対立も激化、一方では大事者の頻々たる□訴、地方では悪党、海賊の跳梁をよびおこし、幕府も朝廷もその対策に腐心しなくてはならなかったのである。」[230]
「こうした社会の激動とともに擡頭してきた「下克上」の空気の中で、「選代の職」と化しつつある天皇の地位、すでにその支配領域を著しく狭められた「天皇職」に、天皇家以外の人が「補任」される可能性は十分にありえたといってよかろう。しかも天皇家を支える貴族たちに内発的な反発力がないとすれば、天皇制の瓦解する条件に欠けるところなしといわなくてはならぬ。古代以来の天皇制は、ここにその崩壊すら見通しうる、最大の危機を迎えていた。」[230-231]
上記は、網野が天皇制崩壊の危機の要因として上げているもので、外的な要因の主なものとして東国の存在がある。網野はこれに対して「東国はここで(平将門が関東八カ国に東国国家を樹立したことを指して)、京都の王朝の統治権からごく短期間であれ、完全に離脱したわけです。」「鎌倉期から南北朝前期まで、王朝はその独自な法令を、公家新制という形で出しているのです。天皇家、公家もまだ少なくとも西国については実権を持っている。だからこそこうした天皇の統治権を、幕府が次第に奪っていくという経緯がたどれるので、その点も十分考慮しておく必要があると思います。このようにして、幕府に統治権をしだいに奪われ、「天皇職」の決定権も事実上、幕府の手にはいってしまった十三世紀後半から重要正規に書けての天皇は、非常な危機にさしかかったといってよいと思います。」と「日本の歴史をよみなおす」の中で主張している。

(4)南北朝の動乱が現代まで意味をもっている理由


王朝自体の権力が削がれ、天皇家の存続自体が危ぶまれた中、後醍醐天皇に残された資源は自身の神聖王としての地位と、日本列島の至る所に存在する「異類異形の悪党」だった。「無縁の輩」とも表現されるそういった人々は、律令国家の成立期から神聖王としての天皇に直接的につながりを持っており、おりしも幕府との対立を深めていた。文観や伊賀兼光の影響もあったことは間違いないが、実質的に当時の天皇が切れるカードは「神聖王として悪党を組織すること」であり、一時的にせよ、それによって幕府を滅ぼすことが実現している。圧倒的窮地にたった勢力が政権を奪取するにまで至ったとき、携わった人は狂喜したのではないかと想像する。

ここまできて、「後醍醐の執念が、六十年にわたって人々をしばりつけ、動乱の火種となったのは何故か」[199]という網野が提起した問題について、その答えの糸口が見えてくる。民衆の立場から見れば、神聖王からの直接の命をうけて倒幕のために動き、短期間であれそれが実現されたことを考えれば、たとえ室町期以降、賤視の目で見られるような体制の変化があったとしても、その出来事自体は心性に根ざす可能性は高いとするのは大きく的を外した想像ではないはずだ。

(5)無縁の世界の衰退後の世界と現在


網野は「無縁・公界・楽」で、「西欧ではこの時期(無縁の原理のとりこみ)を経過したのち、「無縁」の原理は、宗教改革・市民革命など、王権そのものと激烈な闘争を通じて、自由・平和・平等の思想を生み出したものと思われる。しかし、日本の場合、近世社会に入ると、「無縁」の原理の自覚化は、その歩みを遅めたようにみえるが、反面、「無縁」の世界も、鬱屈した状態におかれつつ、なお、かなり広く、その生命を保ったかの如くである。」とし、日本での「無縁」の原理の自覚化について「「有主」の世界から、「原無縁」を最初に組織し、その後も「無縁」の世界を体現しつづけてきた王権—天皇との酷烈な対決を経なくてはならなかったが、その課題に、ほとんど手をつけることなしに、日本の「近代」は始まる。そして、その進行の過程で、知識人—前者の世界を知った人々と、庶民—後者の世界に身をおく人々との、ほとんど回復し難いかにみえるほどの亀裂も、また深まっていく。(改行)こうした状況は、現在もなお、前者の一層の優位の下で継続している。」と述べている。

網野が直接的に記載しようとしないことをあえて露骨に、しかもかなり乱雑に書いたようで気が引けるが、ここまで同氏の著書を読み込んできた結果、自分が現段階で見ることのできる視界を可能な限り記してみた。

2015/09/26 山根澪

第3部 異形の王権

感情的に見える後醍醐天皇に関する記述。
宇多を抑え、排除して、延喜の治を実現した醍醐にあやかろうという後醍醐自身の意思が動いていたのではあるまいか。[182]
その(天皇職)危機を逸早く、最も鋭く感じ取っていたのが、自らの子孫への天皇位継承を当初からほとんど否定され、直径の継承者が天皇になるまでの中継ぎの立場におかれた天皇-「一代主」たちだったことは、まことに興味深。[190]
(花園が)「道義」を身につけることを説く道を選んだのに対し、後醍醐はまさしく「大乱」への道に自らを賭けた。[190]

以下の文章の「暗部」が何なのか気になっているが以上の文章となにか関係がある気がする。
後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。いかに「現代的」な装いをこらし、西欧的な衣裳を身につけようと、天皇をこの「暗部」と切り離すことはできにであろう。それは後醍醐という異常な天皇を持った、天皇家の歴史そのものが刻印した、天皇家の運命なのであり、それを「象徴」としていただくわれわれ日本人すべても、この問題から身をそらすわけには決していかないのである。[202]


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