【08】『日本の歴史をよみなおす』第5回レジュメ

2015/07/04 山根澪

第4章 悪党・海賊と商人・金融業者
第5章 日本の歴史を考えなおす

■都市とはどのような場所なのか?

「都市」として思い浮かぶのは大阪、京都、東京などの具体的な地名で、その要素について考えて来なかったことに思い当たった。網野善彦が都市をどのような場として見ているのか気になり都市についての記述を抜き出した。
町並みをもつ都市であり、中国大陸の銭や中国製の青白磁が大量に出ますし、高麗青磁も出てきます。一四世紀から一五世紀にかけて、十三湊が北の国際的な都市になっていたことは間違いありません。[345] 
不特定多数の人間がたくさん集まる場所、つまり都市的な場[357] 
津・泊まりなどの海辺の都市、市庭などの都市的な場所[358]
本州、四国、九州の海辺、河川の交通の要所には、大小の都市が無数といってもよいぐらいに形成されていました。[364] 
能登の柳田村という山の中にも、福正寺という巨大な真宗寺院があるのですが、ここは合鹿塗という漆器が非常に活発に生産されているところで、やはり都市的な場といってよいと思います。また、真宗寺院は和泉の貝塚や大和の今井などのように、その境内、寺の周辺に商人・職人を集住させて、寺内町をつくっており、寺自体が都市の中心になっているのです。[376] 
富士参詣の道者がたくさんの参詣人を吉田に連れてくるのですが、そうした人たちが吉田の宿坊にとまり、銭をおとしていくわけです。つまり、一五、一六世紀ごろの吉田は、都市的な地域だったと考えられるのです[384] 
飢饉はまずこのような非農業的な地域、都市的な場におこるのだと思います。[384] 
曽々木は製塩と廻船を生業としている都市的な場[385] 
戦争中から敗戦後にかけての経験からいっても、実際に食料をつくっている地域はそう飢えるものではありません。そこから切り離されて食料を購入している都市民がまず干上がるのは、考えてみればあたりまえのことです。[386] 
都市的な世界が広く広がっていて、そうした都市的な人口が高い集中度を持っていたがゆえに、不作・凶作がそういう地域に決定的ダメージをあたえたのだと理解しますと、むしろ飢饉のひどさは都市化の進行の度合いを示すという捉え方も可能になってきます。[386]

■悪について

「悪」とはなんだったのか。
銭、貨幣の魔力にとりつかれ、利潤や利子を追求する商人や金融業者交通路である山や河海にかかわりつつ、狩猟や漁撈のような殺生を好み、博打に打ち込むような人たちは、田畠を基本と考える農本主義的な政治路線に立つ人たちにとっては、まさしく「悪」そのものだったのです。
 この時代の「悪」ということばは、日常の安穏を撹乱する、人の力をこえたものとのつながりをもって考えられており、利潤や利子を得る行為そのもの、商業・金融業そのものを悪ととらえる見方がありました。さいころの目で事を決める博打や、「好色」=セックス、さらに穢れそのものも、人の力をこえたどうにもならない力として「悪」ととらえられたわけです。[351]

■農本主義と重商主義の対立

・一三世紀後半から一四世紀

交通路、流通路を管理する人びとの組織の新しい活動がこの時期に目立ってくるのですが、このような人びとの動きが、権力の側から悪党・海賊といわれたのだと思います。[348] 
鎌倉幕府の悪党に対するきびしい弾圧は、公権力からはずれた商人や流通・金融業者のネットワークをいかにしておさえつけるかにあったのですが、逆に、幕府の内部には、むしろこうした金融業者や商人の組織、流通の組織を積極的に支配の中に取り込んでいこうとする、もうひとつの政治路線がありました。[351] 
いちばん有名なのは、弘安八年(一二八五年)の霜月騒動で、農本主義的な政治路線、御家人勢力を代表する安達泰盛が、北条氏の御内人の勢力を代表する平頼綱と戦って敗北し、滅ぼされた事件です。これを境にして、幕府は悪党・海賊のネットワークをひたすら弾圧する方向だけでなく、むしろそれを支配組織のなかに取りこんでいこうとする方向にも動きはじめます。[353] 
後醍醐は、このような北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒します。それゆえ、後醍醐の政治は、得宗と御内人の推進した政治を、さらに極端にまでおし進めたと考えることができます。[354] 
この二つの政治路線(農本主義と商業・金融)、社会の動きがきびしく対立し、大動乱がおこる結果になるのですが、おおまかにみると、後者の路線がその中で次第に優位をしめていきます。[355] 
一遍の教えはまさしく都市的な宗教なのです。商業や金融業者、それと結びつている女性、さらに「非人」といわれた人びと、一方の見方からは「悪」といわれ、穢れているとされつつある人びとのなかに、一遍の教えは広がっていったのだと思うのです。しかし逆にこういう動きを我慢ならないと考えている勢力も当然あったのです。[358]
・一五世紀
そしてこの動乱(南北朝の動乱)が終わり、一五世紀に入ると、日本列島の社会と朝鮮半島や中国大陸との緊密な交易関係は、足利義満の貿易推進政策によって安定した軌道にのります。[363] 
このような動きのなかで、「農本主義」とは逆に、農業を蔑視する考え方が日本の社会に、一五世紀のころには生まれてきたと思われます。[371]
・一五世紀後半
商人や工人を、農人よりも高く評価する姿勢を『本福寺跡書』の著者明誓がもっていた[374]
・一六世紀
織田信長のように、各地の戦国大名-地域小国家を併合して、「日本国」をもう一度再統一しようという動きがでてくるわけです。この動きが商業に高い評価を置く「重商主義」的な宗教と真向からぶつかったのが、一向一揆と信長の衝突です。[378] 
この衝突は、大変な流血の末、結局、前者の路線-信長・秀吉・家康の路線の勝利に終わり、後者の勢力の海のネットワークはあちこちで断ち切られて、海を国境とする「日本国」という統一体がふたたびできあがります。[378] 
これが近世の国家なのですが、この国家の下で、商工業に高い価値を置く重商主義的な思想は、社会の表面にはでなくなり、農本主義のたてまえが主要な潮流になっていきます。その中で百姓は農民という思い込みが、しだいに社会に浸透していくことになるのです。[378]
農業と商業が対立しているのが面白くて順を追って抜いていった。
こんなふうに追ってみると、日本が米の国というイメージは確かにありながら「経済大国」でもあることの不思議さにも納得がいくように思える。

■コメント(大谷)

  • 小林氏が指摘したように『日本の歴史をよみなおす』第二章で「天皇が一四世紀の動乱後、まったく権力を失い、権威もおおいに低下しながら、なぜ生き延びられたのかという問題と、日本の社会に、このような(キリスト教や時宗など)一神教的な宗教がなぜ根付かなかったのかという問題とは、たぶんその根は同じ」という「その根」がここでより明確になる。つまり、日本には大きく2つの主義・姿勢・立場がある。一つは、重商主義・無縁・本音。一方は、農本主義・有縁・建前。前者は、一神教的な性質を持っている。これが13世紀後半から大きく盛り上がり、南北朝期にそれを迎え撃つ形の後者との厳しい対立から動乱が生じ、14世紀後半以降は重商主義が減衰していく。その後、戦国時代から江戸時代にかけて農本主義による日本国という再統一体が形成される。鎌倉新仏教は重商主義の盛り上がりとともに同時多発的に発生し、その後、農本主義による大弾圧を受けて「根付かない」。
  • また、14世紀後半以降低下したとされる天皇の権威は、重商主義的な神聖王としての権威であるが、天皇は同時に律令制度のトップであり「稲」の王でもある皇帝としての農本主義的側面も併せ持っているため、農本主義によって再統一されていく戦国江戸期にも「生き延びられた」。なお、南朝に重商主義的側面が、北朝に農本主義的側面が現れている。
  • この2つの主義が波のように、大きくなり小さくなりして日本という国は営まれている。明治維新以降の近現代とされる時代において、この2つの大きな主義・姿勢・立場がどのように現れてきているかを読み解くことができれば、網野の言う現代が南北朝期に匹敵する動乱期という言葉で見ようとしているものが見えてくるはずである
  • 一旦誰のものでもない無主の状態にしてから専有することで有主にしていくというプロセスで、無縁から有縁が生じたように、無縁から生まれた貨幣、市、芸能は、時代が下るに従い有縁化されていく。これは重商主義によって生まれたものがやがて農本主義に飲み込まれていくという言い方もできる。重商主義は「移動する」性質があり、農本主義は「固定する」性質があるとも言えるかもしれない。
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