第五章−第六章
2014/12/14 発表:鈴木陵
第五章 「日本・現代・美術」
「世界が非均質な歴史の複数性によって重層的に決定/非決定されており、もしも近代の近代性がこのズレにおいて現れるとするならば、「水準」や「進展」といった世界同時性など偽物にすぎず、この異なる歴史系の出会い、交通、翻訳、そしてときに侵略、占領、同化において事後的に構成される「歪んだ近代」にこそ、「美術」と「アート」が担いうる真の世界同時性も、ときにそれが呪われたかたちにおいてだとしても、見出しうるのではないか。」(96)→「水準」「進展」といった世界同時性などは偽物…!言いきりがかっこいい。
「日本において「ポップ」というときにそれが意味するのは、なにをおいてもまず「アメリカの影」なのであり、したがって、「ジャパニーズ・ポップ・アート」という気恥ずかしい言葉も、「戦後日本の美術においてアメリカが果たした役割はどのようなものか?」という命題に意訳することなくしては意味がなく、また、美術史の相対的に普遍的な世界性との接合点もありえない。」(98)
「絶頂に達した輝かしい「日常」を描写する「反映のポップ」が現れた。」(117)→幼少期は少年漫画の絵を真似して描き続け、TAMIYAの「ミニ四駆」で遊んだ。中学生の頃には日本のヒップホップやロックを聴くようになった。最近はテクノポップやダンスミュージックも好きだ。こういうものに触れている時、どこか空虚な感覚がたまに残ることがある。「消費的な快楽だからそうなる」ということだけでは説明がしにくい感じもする。本書の言葉を使えば「下地に「アメリカの国旗」を敷いて」あること、「忘却」の歴史があること、「緊張感」がないことに由来するのではないか。
第六章 「バリケードのなかのポストモダン」
「基地にこそ、戦後の復興の過程でわたしたちが忘れてしまった生々しい境界線が存在するのだということだ。基地と街のあいだには、なにか決定的な「差異」があり、それが戦争に勝った側と負けた側とのあいだに引かれた不可逆性を帯びたラインであることは明白だった。」(116)
「敗戦によって日本は「占領」され、そこにはかつてなかった「境界線」が引かれた」(117)
「しかしそれは新しく到来した「日常」のなかで急速に透明化されていった。「境界」は心理的なものとなった。」
「この新しい「日常」のうえに、わたしたちの生活も喜びも苦しみも、すべてがつくり出されていった。復興と高度成長を合い言葉に着実に整備されていったこの「日常」による支配が最終的に全面化するのが1980年代であったことはあらためていうまでもない」→僕は生まれが1987年なので、戦後の占領はもちろん知らないし、高度経済成長期もほとんど記憶にない。すでに「境界線」が「透明化」した「日常」の中にいる。少しニュアンスは違うかもしれないけど、2011年の震災後に「日常が続くわけじゃないんだ」みたいな言葉が聞かれた。これも「透明化」されたものがあらわになった結果なのだろうか。「日常系」みたいなジャンルの呼ばれ方をする漫画があるけど、無邪気に「日常」なんていう言葉も使いにくくなる感じがする。
「そもそも、わたしはなにものなのか?と問おうとしているのではないのだ。わたしはなにものでないのか?と問うのが、この心理状態の特徴である。回復すべき自我それ自体がすでに、ハイブリッドで「スキゾフレニックな日本の私」でしかない以上、いかなる回復も本来あるべき仮想の日本の私に辿り着くしかない。(略)わたしはポップであるということにとり憑かれている。」「つねに私は境界線上を歩く。」(119)→すごく気になった文章だけど、どうにも飲み込めない。分かるような気がするけど、分からない。「本来あるべき仮想の日本の私」「ポップであることにとり憑かれている」とは。
コメント(山根)
- 今回はのゼミはわからないなと思うことが多かった。ちょっとした読み間違いはメンバーによって解かれたりしたが、本当に筆者が言おうとしていることはなんなのか、今自分が考えていることが多少なりとも筆者の考えに近いのか、といったことに確信を持てなかった。読めないけどなんとかそこに潜り込もうとした。そうしようとすることが新鮮で、今までの本の読み方とは違う感覚を味わった。一旦次の章に移っていくけれど、もう少し読めるようになったらいつかまたここを読みたい。
- 最近作っている甚平のズボンは和風のものにしたいと思ったが、そもそも「和」風の「ズボン」という奇妙なものを簡単に思いついてしまう私はなんなんだろうかと考えていた。甚平について少し調べると、甚平にズボンはそもそもついていなかったが後になってついたことが分かり、更に甚平自体が大正時代に広まり始めた歴史としては割と新しいものだということが分かる。そんなに新しいものだったのかと知るとちょっと残念な気持ちになった。それでもそこに何か歴史的で確固としたものはないのかと、それを見つけたいと検索していく。それでやっぱりそういうものはなさそうだと思うと安心したりする。その自分の行動が面白く、ゼミの影響を強く受けてるなぁと思う。
- この本に限らず、ゼミで読んだ本の影響を日常的に感じることが多くなった。そういう読み方ができていることが楽しい。
コメント(大谷)
- すべてを飲み込んでしまうような強大な「日常」。あらゆる「非日常」が表出した次の瞬間、「日常」に飲み込まれてしまう。そんな「日常」がずっと気になり続けていた。「この更新された概念としての「日常」は、二元論的な意味での日常と非日常との対立を無化するやいなや、よりによってふたたび単なる日常に回帰してしまうような、解決不可能な悪循環を孕んでいるのである」[122]
- 東日本大震災ですら、未だに解決の目処が立たない現在進行形の原発事故ですら、「日常」に取り込まれてしまう。コンビニは24時間明るく照らされ膨大な量の商品が開発・廃番になっている。演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の演出家・岡田利規が『スーパープレミアムソフトwバニラリッチ』のアフタートークで発言した「東日本大震災を契機として変わることができたかもしれないけれど変わることはなかった私たちの社会をコンビニは象徴している」の「変わることができたかもしれないけれど変わることはなかった」円環は「悪い場所」ゆえのものだろう。
コメント(鈴木)
- 椹木は戦後における日本の状況・アメリカの影響について説明する。
- 「わたしがこういうとき、そこには、どこにも辿り着かず、ことあるごとに「欧米」に相談してまわり、しかもその営みが「暗く」あるほかない近代日本の芸術家の、いや、そこに生を享けたすべての人びとの宿命を、小沢の作品に重ねて読んでいる」(130)
- 「そのような「くらさ」を通してしか「近代」が見えてこない」
- 「戦後という場所を生きる私たちは、原口の言う「最大の実験場」に「日常」を営むことを余儀なくされてきた」(138)
- なんとなく、著者の指摘する現代の日本というものが見えてきたような気もする。かといって「ではどうすればいいか」という方策のようなものが見えているわけではない。無理に見いだそうという感じにもならない。
- 今は、自分が日常的に触れている(原口典之のいう)「大量の物資、機械、娯楽」が、どんどん相対化されていく感じがしている。おしゃれで洗練された大型の商業施設も、その一角のカフェで出されるコーヒーも、そこで流れてくる音楽も、客が身にまとっている洋服も、これまでは自分とすっかり同じ場所にあった。今は、自分から半歩だけ向こうにずれた場所にあるように見える瞬間がある。