第一部
2014/12/29 発表:大谷隆
第一部 モモとその友だち
章タイトルは一部の例外(6、11、12、19)を除くと、「対」になっている。
一章 大きな都会と小さな少女
導入部、「むかし、むかし」と始まるが、「モモの物語がはじまったころのこと」の時代設定は曖昧なので、どの程度「むかし」なのかは不明。この「むかし」の描写の長さが気になったので、その中でも特に気になる部分を抜き出してみた。
むかし、むかし、人間がまだ今とはまるっきりちがう言葉で話していたころにも、あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。[11]
みんな芝居が好きで好きでたまらない人たちだったからです。[12]
ただの芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかと思えてくるのです。[12]
「まるっきりちがう言葉」「りっぱな大都市」「芝居が好きで好きでたまらない人たち」「舞台上の人生のほうが、日常の生活よりも真実にちかい」など印象的。
二章 めずらしい性質とめずらしくもないけんか
モモの「聞くこと」について、
ほんとうに聞くことのできる人はめったにいないものです。[22]
モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えが浮かんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただ彼女はじっとすわって、注意深く聞いているだけです。その大きな黒い目は、相手をじっと見つめています。するとあいてには、自分のどこにそんなものが潜んでいたかと驚くような考えが、すうっとうかびあがってくるのです[22]
モモの聞き方はどのようなものか。23ページから29ページにかけてのニコラとニノのけんかを聞く様子から、モモは一言も喋らずに聞いていることがわかる。
さらに、ひとりで「夜空を聞く」と「音楽が聞こえてくる」。
頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳な静けさにひたすら聞きいるのです。
こうして座っていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。[30]
これは、後にマイスター・ホラとの「時間とはなにか」という問答で、モモの回答の「一種の音楽」[210]として現れる。
四章 無口なおじいさんとおしゃべりな若もの
ベッポの仕事観は、
ひとあし−−ひと呼吸(いき)−−ひとはき[48]
「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけ考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。」「どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」「これがだいじなんだ」[48-49]
またベッポの特殊な話し方が印象的。気になった箇所として抜き出す。「ーー」部分は長い無言(数十秒)を現していると思われる。
「むかしのわしらに会ったよ。」
「よくあることだがーー暑さの中でなにもかも眠りこんでいるような、まっぴるまのことだーー世界がすきとおって見えてくるーー川みたいにだ、いいかね?ーー底まで見えるんだ。」「その底のほうに、ほかの時代が沈んでいる、ずっと底のほうに。」
「そういうべつの時代があったんだ、あのころのことだ、外壁がつくられたころだーーあそこでおおぜいが働いていたーーだがな、その中にふたり人間がいた、そのふたりがあの石をあそこにはめこんだんだーーあれがそのしるしだ、わかるかね?ーーわしにはそれがわかった。」「そのふたりは、いまとはちがうようすだった。あのころのふたりはな、ぜんぜんちがっとった。」[49-50]
第一部は、物語への導入として、登場人物の説明のために日常的風景をさらっと描いているが、読者にとってはこの日常は失われた理想であり、現代社会において取り戻すことが極めて困難であることが、第二部以降厳しく突きつけられる。この第一部の日常の描写、ベッポの仕事観、子どもたちの空想遊び、吟遊詩人の物語、そしてモモの「聞くこと」への姿勢などの豊かな質感が本書を特徴付けている。
また、主要な登場人物である道路掃除夫、観光案内(吟遊詩人)、子ども(童)は全て網野善彦の「無縁」の人であることも興味深い。
(思いつきで書きますが)第二部以降に起こることが「近代化」だとすれば、三、四、五章で描かれる「子どもたちの無限の空想」「ベッポの仕事そのものがただ在るという仕事観」「ジジの吟遊詩人的物語」は前近代とも言え、仕事や物語の目的は、自分の外側である「神の領域」にあって人が扱うことはできない。近代化によって、全て行為の「目的」が自己によって規定されるようになり、「私はなぜこれをしているのか」「私はなぜここにいるのか」が自動的に問われるようになる。その「目的」(の一つ)が「灰色の男たちの時間」。それに対して「モモの時間=静けさの音楽」は異なる。