【06】『贈与論』第1回レジュメ

序論、第1章
2015331日(火)
鈴木陵

■序論「贈与について、とりわけ、贈り物に対してお返しをする義務について」

わたしたちの経済組織や法体系に先だって存在してきたあらゆる経済組織・法体系においては、財や富や生産物が、個人と個人とが交わす取引のなかでただ単純に交換されるなどということは、ほとんど一度として認めることはできない。第一に、お互いに義務を負い、交換をおこない、契約を交わすのは、個人ではなく集団である。契約当事者となるのは、権利義務の主体となる資格が認められた集団である。[67

個人間の交換・取引がほとんど認められない、ということは現在の私たちの生活からすると想像がしにくい。本書で扱っている時代や地域においては、社会を構成する単位が「個人」ではなく「集団」であるように見えてくる。

クランにせよ結婚にせよ、イニシエーションにせよシャーマニズムのセッションにせよ、偉大な神々への礼拝にせよトーテムへの礼拝にせよ、クラン全体の集合的な祖先への礼拝にせよクランの個別の祖先への礼拝にせよ、すべてのことが混ざり合い、儀礼や、法的・経済的な給付や、政治的位階の決定などの綿密に織りなされた編み目をかたちづくる。[72

ここに書かれている「慣行」は、現在の日本では礼拝以外のほとんどが、法律によって支えられ、管理された制度として機能しているように思う。しかし、92ページにも触れられているお祝儀をはじめとして、賄賂のやり取りなどには「受け取った贈り物に対してお返しをするように強いるメカニズム」が現代でも働いていると感じられる。

■第1章「贈り物を交換すること、および、贈り物に対してお返しをする義務(ポリネシア)」

たとえば、女性が自分の兄弟からその子どもを預かる場合、つまり、女性の夫が自分の義理の兄弟からその子どもを預かる場合がある。(略)このときこの子どもは、それ自体がトンガ、つまり女の財と呼ばれる。その一方でこの子どもは、現地の産物(アンディジェーヌ)という性格をもったさまざまな財、すなわち、さまざまなトンガが、子どもの家族から子どもを受け取った家族へと流れ続けてゆくための回路である。[83-84

子どもが「回路」だという慣れない表現に驚く。「トンガ」という語について、以下のように書かれている。

所有材と言えるもの、富や力や影響力をもたらすもの、また、交換されたり、引き換えにお返しがやりとりされたりしうるもの、そうした一切のものを指している。それらはもっぱら財物であり、護符であり、紋章であり、ゴザや聖像であり、場合によっては伝承や礼拝や呪術儀礼であることさえある。こうしてここで、護符としての所有材という観念に行き合うのである。[88
預けられた子どもから、何か呪術的なものが発せられているようなイメージが浮かぶ。このハウが、盗みに遭った人のかわりに報復を遂げる[95]ハウが自分の生まれた場所に帰りたがっている[97]タオンガが、もしくはタオンガのハウが(略)こうした一連のタオンガの使用者に取り憑いている[97

「ハウ」が人格を持って動いているような、姿かたちが見えてくるような感じがする。

取り憑くのをやめるのは、これらの使用者たちが、自分自身の財産やタオンガや所有物によって、あるいはみずからの働きや取引によって、饗宴やお祭りや贈り物をおこない、同等のもの、もしくは価値において上回るものをお返しするときである。こうして、最初に贈り手であった人が最後には受け手となるわけであり、今度はこの人に対して、お返しをした人たちが権威と力を持つことになるのである。[97

何の名目か不明瞭なお金を渡す・受け取るといった場面で発生しているのも、「権威と力」だろう。これを「受け取るのを拒否する」と、渡そうとした側の権威が失われる感じがする。

誰かから何かを受け取るということは、その人の霊的な本質の何ものか、その人の魂の何ものかを受け取ることにほかならないからである。このようなものをずっと手元にとどめておくのは危険であろうし、命にかかわることになるかもしれない。[100

怖い。やすやすと人に物を贈れない感じがしてくる。それでも私たちの日常生活では、食べ物や消耗品など使い切ることができるものであれば「ずっと手元にとどめておく」ことにならないので、その重たさは軽減される感じがある。けれど、本書では「食べ物」は贈与や交換における重要な要素として扱われているので、簡単に同一視はできなさそうだ。p101,102「タフ(Tahu)をないがしろにするな」に見られる食べ物にまつわる信仰までではなくとも、冠婚葬祭の場面で食事をするという行為も関連があるように思える。


ゼミを重ねてきて、本によって性質が異なり、読み方、特に現代の生活に引きつけたくなる場合には注意が必要だという気がしてきている。本書の場合、第一章の後半で神や死者、霊の存在感が一気に強くなる。そうした霊的なものに接する機会が少ないので、その立ち位置の違いについては自覚的になりながら読んでいきたい。


コメント(鈴木)

  • 本書で取り上げられている事例は、常に「神からの返礼への期待」があると考えると納得がいった。神に生け贄を捧げるということは、贈り物以上のお返し(収穫など)への期待が込められている。この視点を注意深く持った上で、現代の自分の暮らしの感覚も持ち合わせれば読み解けそうな気がしてくる。
  • 「ある事象を指す言語・語彙があるということは、それを扱えるということ」という発言がおもしろかった。ゼミの後、メンバーの会話の中に「ハウ」という言葉が定着したのもおもしろい変化だった。本来的な意味で使いこなせているかは今後も注意していきたいけれど、語彙を得ることによって新しい概念を得られた気がして楽しい。
  • 「贈りものに対しての返し方は、ものを贈り返すだけではない」という発言を聞いて「全体的給付」のイメージが具体的になった。以前、数日間「まるネコ堂」に泊めてもらったときも「何か手みやげ持っていった方がいいのだろうか」と思ったけれど、特に持ち込みたいものがなくてやめた。その代わり、ここでのことをブログに書いたり、率直な態度でじっくり話したりすることによって返礼できている感じがしいた体験を思い起こした。
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