【02】『考える練習』第2回レジュメ

第4講-第6講
2014/09/04 発表:山根美緒

本書をまとめようとテーマを取り出そうとすると、そうやって読むのは違うんじゃないかなという気になった。テーマについてそれぞれとても面白い。でも、筆者はなんのことでも話せるんだという感じが面白いのだと思う。テーマ自体が面白いなんてことはなくて、この人の考える筋道が面白く、そういった文体とか話法といったものについて考えていきたい。

第4講「カネを中心にした発想」から抜け出す

何かあることを考えるのに、いろいろな角度からいろいろな前提をふまえて、また前提を取り払って考えていっているように思える。そういう考え方について見ていきたい。

カネは必要ではある、親にせびれば良い、真剣に続ければ食いっぱぐれない、カネが欲しくてやってるわけではない。いびつな螺旋を書きながら核心のことを話していく。

日本の年間自殺者は3万人になっています、世間はこんなに大変な状況です、ということに対するぼくの回答は、たとえば「カフカを読むことだ」ってことになる。対抗すること、カウンターを出すことが遠回りだけど解決になると思う。[86]

…人からうらやましがられるような仕事っていろいろあって、人ってなんとなくそういうものをやることが幸せなんだと思いがちだけど実際には自分がいいと思うこと、好きだと思えることを追いかけるほうがずっと喜びが大きい。本当の喜びは、人から追いかけられるより追いかけるほうにこそある。そういうほうが人生としてずっと幸せなんだと。…この現代と戦うこと、対峙することって、ひとつにはそういうふうに考えることなんだよ。[91]

ひとりで食うや食わずやで頑張っているよりは、カネをせびったほうが親も安心すると思う。ひとりでちまちま技術や時間を切り売りしているより、親にカネをせびるほうが本気度が高いと思う。[93]

カネがなくてひとりでちまちまやっていると、そのサイクルの中で自足しちゃうところがある。だけどそこは自足しないで、少しは射幸心とか名誉欲とかというものを持ったほうが、自分以外の視点が入るからいい。[94]

「カネにならなくてもいい」「とにかく続ける」っていうだけでやっていると-荒っぽい言い方をすると-自己満足になっちゃう。自己満足って必ずしも自信の現れじゃなくて、不安の裏返しでもある。[94]

人の目にさらすっていうのは必ずしもカネのためじゃなくて、自分のやっていることが少しは通じるのか、全然おかしいことをやっているわけではないのかなっていうくらいのことは確かめておきたい。[95]

芸術だとか工芸だとかに関わりなく、何かを開発するとか、あるものを改良していくとかいったことでも、そのことに真剣に集中して創意工夫を続けていれば食いっぱぐれないと思うんだよね。[101]

小説を書きたいから小説家になるんだよね。「小説を書いて有名になりたい」「小説を書いてカネがほしい」ではない。本当は「小説を書きたい」から始まっているはずなんだ。それがわからなくなっているっていうのは、やっぱりマネーとか現代社会に心が蝕まれているんだよ。[104]

作ることのできる感覚。

レーモン・ルーセルは、19歳のときに『代役』という詩を書いて、そのときにものすごい栄光体験をしているんだよ。人に評価されたとか言うんじゃなくて、自分の中で輝かしい栄光体験が生まれた。その瞬間、自分の中では文学史上に燦然と輝く人になったような体験が起きちゃった。[96]

第5講 文学は何の役に立つのか?

芸術ではないものについて。こういうものが芸術といわれているものは既に芸術ではない。

みんな芸術について、何かの形に収まればそれが表現のようになるっていう思い込みを持っていて、その形というのは匂いとかテイストとか色とか雰囲気とかっていうことだけど、実際にはそういうものをなぞると本来の芸術じゃなくて模倣になってしまう。[106]

いろいろと考えながら読んでいるが、一体結局どれくらい読めているのかと考えさせられる。誰かの文章を読む時も人の話を聞く時もそのことをそのまま理解するのは難しく、よく出回っているわかりやすい考え方に絡めてそこに収束させてしまいがちになる。

……でもそのことについて、ぼくが「でも、ウォーホルとかホックニーは受け入れられたでしょう」って説明したら、それは売れた話になっちゃう(笑)。なんて言えばいいんだろう。人に話すのは大変だよね。[111]

線的ではない思考法へ。

話を前へ前へ、あれがあったからこうなって、何だからどうしたとかいうふうに線で進ませるんじゃない思考法が、空間を描くことで出てくるんじゃないかと思ってる。[117]

少なくとも、文学に日々接していれば、ひとつの軸だけではものを語れないっていうことはわかる。正解なんてないんだってことを身にしみて感じる。単一の世界像みたいなものは幻想だってことを知るのが文学に接するということだよ。[126]

第6講 「神の手ゴール」はハンドでは?

平等と運の話し。不平等であるということろから出発する。

ああいう過度に平等を謳っているのも、何かの隠蔽だと思うんだよ。人生も社会も不平等なんだってことから出発したほうがいい。[141]

知能とか思考力って目に見えないから、「努力すればなんとかなるんじゃないのか」なんて思っている人も多いんだけど、能力の違いってやっぱり絶対的なものだんだよね平等もなにもない。[141]

だからもともと平等なんてなくて、人は運に翻弄される。センター試験だって平等ばかり言ってないで、そういうことを教えるほうが大事だよね。[143]

運の存在を隠している世界、排除しているような「健全な世界」に生きてきたら、40過ぎてそういう発想をしろって言っても難しいよね。[143]

運に根拠を置く思考。運って生かしたり殺したりできる。「運が悪い」のまで自分で引き受けてしまう。

運っていうのは、確率が通用しない時期のことなのかもしれない。「今日は確率が通用しないな」と思ったら、確率に根拠を置く思考をやめるしかないじゃん。[144]

コメント(大谷)

第4講のタイトル『「カネを中心にした発想」から抜け出す』はまさに絶妙。中心にないだけでお金を使わないわけではない。例えば「自立」という言葉も「生きていくのに十分なお金を稼ぐ」という意味で使われていることが多い。「自分ができないことを他者に頼る」ことも自立であり、むしろ「カネ」さえあれば生きていけるという発想のほうがカネを基盤にした社会を前提としていて「自立」していない。同様に「仕事」という言葉も「継続的にカネを稼ぐ手段」という意味が最初に現れてくるのは「仕事」を小さく捉えすぎている。「産業も仕事も金とは起源が違う」[135]し、カネが誕生する前から仕事はあった。カネを中心にした発想に基づく社会という「ピラミッド」を仮定すると、その中のルールはすべてカネを中心に構成されているが、そのピラミッドの外に抜け出して生きることは可能だし、それを実現していくのが面白い。それには、ピラミッドの外でもう一度「自立」や「仕事」などの言葉を再度見出すことが必要。「食いっぱぐれない」[101]も「食費(カネ)を稼ぐことができる」ということではなく、文字通り「食べることができる」というふうに捉え直して、カネの比喩にしてしまわないことが重要。第4講は何かを追いかけている人に勇気を与える。

コメント(山根)

『「カネを中心にした発想」から抜け出す』ことはカネのある社会から抜け出すことでもないし、できるだけカネを使わないことでもない。むしろそういうものはものごとをカネの観点から考えるている、「カネを中心にした発想」。「仕事は何ですか?」と聞かれたとき、思わずお金をもらっている仕事のことを探そうとするけど、仕事をお金の面からのみ捉える必要はない。ひどい場合には、「普段何をやったりしてるんですか?」と聞かれて同じように答えてしまう。仕事だけでなく様々なことを知らず知らずのうちにお金の観点から語るようになっていた。そういう語り口しか持てないのはやっぱり「マネーとか現代社会に心が蝕まている」[104]。

誰かと話しをするときにそれ以上話したり考えたりしたくなくなる瞬間がある。それはその話の内容から自分の行動がいいのか悪いのか、正しいのか間違っているのか考えてしまうときで、特に悪いと思った時にはその話をシャットダウンしてしまうことがある。本書を読んでいると、自分がしていることがいいのか悪いか考える前に単にそこにある状況を取り出して考えているところがあると感じた。むしろ、悪いと思える方に自分がいても状況について考えてことができるのではないのか。例えば、本書であれば「マネーとか現代社会に心が蝕まている」と言っている本人も自分は心が蝕まれていると思っているのかもしれない。だからその状況が何なのかと考える。考えるといのは、何かよい方向へ向かって考える[30]ということなのだから、そこで見つけようとする理想に対して現在の自分がそもそも間違ってしまって当然。そういう自分が引っかかる瞬間に立ち止まり、なにか間違っているように思えてくる自分のいる状況を見ていけるような思考はどうやったら身につくのだろうか。

コメント(鈴木)

「自立」について。「自立せねば」という感覚を持つ自分がいる。これは自分にとってはプレッシャーとして働いていて、この感覚をもう少し丁寧に見てみると「自分で稼いで、自分で消費できるようにならねば」という感覚であることを発見した。「自立している」ことは「お金を稼げている」ことだけを必ずしも意味しないのだけれど、ついお金の方に引っ張られそうになるので、自分の中で相対化できるようにしておきたい。
以前別の場所で聞いた「自立とは、依存できる先を増やすこと」という言葉を思い出した。この言葉を聞いたとき「なるほど」と思ったのでゼミ内でもこの言葉を引用したものの、その後どこかしっくり来ない感じが残っていた。よく考えると、しっくり来ないのは「増やす」という言葉の「数」の部分に注目していたからで、むしろ「自分が依存先を必要だと感じたとき、依存先を用意できること」という自分の行動や周囲への働きかけに注目してみると納得がいった。これは前回のキーワード「不安定さを乗りこなす」とも通ずる部分があるんじゃないだろうか。不安定なことを前提とした上で、お金やテクノロジーに飲まれず、これらもうまく使って乗りこなす。「お金のある社会の中で、お金中心の発想から抜け出し、かつお金もうまく使って生きる」。これを遊びとして捉えられたら、楽しいだろうなぁ。

コメント(高向)

【自立について】
第4講「金を中心にした発想から抜け出す」を読んで金を新自由主義的な発想で自立という概念を捉えると、自分で食べていけるだけの収入がある状態のみを自立と考える。つまり、経済力の有無が自立しているか、していないかの基準となる。
 お金という価値基準が非常に高いウエイトをしめるという意味でお金を中心にした発想といえる。しかし、共生社会的な発想で捉えるなら、自立とは、人に頼ることや、助けてと発信する力をも含む広い価値を含む概念であるといえる。その意味で、自立するとは、頼れる先を増やすことといえる。
 湯浅誠のいう「溜め」を増やしていくというイメージ。新自由主義的な自立観の社会は、自分の身は自分で守るという価値観が中心の社会。共生社会的な自立観の社会は、人に助けを求めやすい社会であり、人と人との距離が近く、人に優しい社会という感じ。その意味で、人を中心にした発想であるといえる。
 僕が大学院で都市政策を専攻し、生きづらさを抱える若者が生きやす社会について考えていて、目指す方向性は、後者の共生社会的自立観が尊重される社会である。

【生き延び方の教育法について】
『日本の年間自殺者は3万人になっています。世間はこんなに大変な状況です、ということに対するぼくの回答は、たとえば「カフカを読むことだ」ってことになる』[86]という保坂氏の意見を読んで議論をした中で、僕の中で大きな発見があった。
 私は、通信制高校生や定時制高校生や大学生を対象に、労基法のワークショップを行っている。
 教師側からよく出る質問に、高校生に労基法を教えることは、権利ばかりを主張する生徒を育成するだけだというものである。しかし、私は、「法律を教えることは、市民として必要な知識を教えているのであって、それを教えるなということは、民主主義に反する」と答えている。
 しかし、いつもどう答えるか、悩むのです。しかし、労基法の設立を歴史の視点から捉え直すと、単純に権利を主張する生徒を育成するという意見が、検討外れであることがわかる。
 労基法は「働くことを守る法律」である。それは、人権を人々が勝ち取っていくプロセスである。そのような人間の歴史を知ることが大事である。それは、高校生がこれからどう生きるかに光を当てることにつながり、意義のある教育機会だと実感した。
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