【11】三浦つとむ『日本語はどういう言語か』第3回レジュメ

2015年10月22日 資料・発表:大谷隆

■構造主義批判


そこつ長屋の例から三浦つとむは構造主義をこっぴどく(感情的に)批判している。

一人称表現の場合、観念的な自己分裂を認めなかったらどうなるでしょうか? 「私」は対象として、話し手の向う側に位置づけられるのですから、自分がまるごと向こう側に行ってしまって、あとには何も残らないことになります。[133]

アラン・ロブ=グリエの作者非存在論

存在するのは人称と無関係な視線だけだ。[133]
この作者非存在論は、作者が存在しないのに小説が生れるという主張ですから、これをつきつめていくと、人間が存在しないところに言語が生れるという言語論になります。[134]
構造主義者とされるラカンは、

頭のなかにある「言語」が人間と無関係に勝手に外部にあらわれたのだ[134]
この解釈と作者非存在論とが結びつくと、あらゆる人間、あらゆる人間の存在に先立って、「言語」の体系が存在し、これが人間の頭のなかに入ってくるのだという理論にもなります。 [134]
さらに構造主義者フーコーは、

言語は表現でもなければ意味を伝えるものでもなく、言語はそれ自体として自己運動していろいろなかたちになり知識や理論になるのであって、人間が語ったり書いたりしているように見えても主体としてカラッポであり存在しないのである、(略)もはや人間という観念は必要なくなったというわけです。 [134]

ところで、構造主義とは、Wikipediaによれば

構造主義とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す言葉である。
研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。構造とはその要素間の関係性を示すものである。それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。

構造主義自体はとても便利な考え方で、それなりの有用性はあると思われる。しかし、これを三浦のいうように、言語に対して厳密に適応してしまうと、「主体はカラッポ」「人間という観念は必要なくなった」といった極端な結論にたどり着く。あるいは、逆に構造主義が「関係性=構造」にのみ着目するというところから出発しているので、構造主義者にとっては、存在するのは「関係性=構造としての言語」のみで、元より対象としての人間は存在しないということでもある。

三浦は「観念的な自己分裂を認めない」ことをその分岐点としているが、この自己分裂後の「作者の立場」からの表出を〈自己表出〉として見るとすれば、この三浦の憤りは吉本隆明によるソシュール批判へと通じる。

ソシュールは、かんたんにいえば言語の価値を意味の含みというほどにみている。たとえば、
 A わたしの表皮は旱魃の土地よりも堅くこわばり(「貝のなか」原文)
 B わたしの表皮は堅くこわばり
AとBとは、人間の皮膚が旱魃の土地と意味のうえで、むすびつかない以上、文章のしめす概念的な意味としては、まったくおなじことになる。しかし、その文章の価値はちがっている。
Aで、「旱魃の土地よりも」は、たとえば〈象の背中よりも〉、〈足の裏よりも〉(略)・・・というような同一の意味の含みでつかわれるさまざまの表現ととりかえることができる。いいかえれば、「旱魃の土地よりも」という表現は、文脈のなかで多数の意味のふくみを代表していることになり、したがってAの文章はBの文章の価値をいうばあい、AはBよりも価値があるとしなければならない。ソシュールの言語価値の概念は、つまりここに帰着するようにおもわれる。[「言語にとって美とはなにか」[99-100]]
おそらくソシュールのプログラムには自己表出としての言語はないのだ。[同105]
つまり三浦の「自己分裂」は、吉本の〈自己表出〉が必要とする「こちら側(書き手=主体)」が言語自体に「備わっている」ということである。これが吉本にとって重大な発見であったことは解説からも確認できる。

表現された言語は、むこう側にあるが、認識の動きは、その都度、こちら側にあるという三浦つとむの示唆は、わたしには啓示であった。[271(吉本による解説)]
わたしが三浦言語学から、おおきな示唆を受けたのは、つぎのような箇所であった。
ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格もそなえており、さらに作者の独自の見かたや感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造をもち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。
絵画や写真は、できあがったあちら側をみるだけではなく、描いたり、撮影したりしたこちら側をみなければならぬ、ということを示唆している。この示唆は、拡大されうる。そして拡大することによって、創造したものの内面の暗がりを、いわば、表現された作品との統一において、きめ細かく再現することの可能性をも暗示している。[273(同)]
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